ショコラ 君がいて、僕がいる



映画が始まるや「これは実話を元にしたフィクションである」との文章が出る。いわば「ことわり」だが、見終わると「原作」を…そこに書かれているのが「ショコラ」にとっての「真実」であろうとなかろうと…読みたくなった。


この映画のチラシではロートレックの描いた「ショコラ」の絵が、本編の最後ではリュミエール兄弟の撮影した「フティット&ショコラ」の映像が見られるが(作中では兄弟が少々コミカルに描かれているのが面白い)、そのうち、あれらは決して「よかった頃」ではないのではないかという気持ちが強くなる(映画のラストがあのようであっても/だから「原作」を読みたくなる)。でもそれは後世の、「知らなかった」頃の方が「よかった」などと考えたくはない私の、勝手な思いでもある。


映画は「村にサーカスがやってくる」のに始まり、「サーカスの中」で終わる。ある種の人間はサーカスでしか生きられないという話のようにも思われる。オープニングからしばらく、あまりに詰め込まれた色々に、頭が混乱し胸がいっぱいになる。「村にはいない『種類』」の人間や動物が共に生きている。登場した(後の)ショコラ(オマール・シー)の芸に、落語「一眼国」のあらすじが浮かんだり、私が子供の頃だって「ブッシュマン」シリーズが流行ってたじゃないかと思い出したり。この時の私は「客」である。


フティット(ジェームス・ティエレ)がショコラを相方にしようと「寝食の保証なんて当たり前の待遇だ」「それでいいのか」と誘うあたりから、私は客ではなくショコラの側になる。例えば裸でもって食べている女への言葉であってもおかしくないからだ。終盤、行方不明の夫を案じて訪ねて来たショコラの妻マリー(クロチルド・エム)に「養ってやったのに」と口をついて出るのもそうだ。幾多の場面で、ショコラを「女」に置き換えて見ずにはいられなかった。何よりも「黒人である自分が『オセロー』(黒人)を演じたい」という思いと、「世間」の、「愚か者」を演じる彼はもてはやしても「黒人」を演じる彼は拒否するという態度との、深すぎる溝。今だって同じようなことがあるじゃないかと思う。


「偏見」が無くとも、人間が複数居れば権力差が生じる。ましてや二人きりで無人島にいるわけでもなければ。ショコラとフティットの間にも、よくあるそのことが起き、溝が深まってゆく。拘束されたショコラに対してフティットが言う「何とかする」とは身分証を都合することであり、その暁には明るく迎えに来るが、ショコラにとっての問題はそれではない(厄介なのは彼自身もその「問題」にその時まで気付かなかったということである)。同僚との喧嘩で座長に呼ばれたショコラを「お前は真の道化だ」と励ましたところで、そもそもフティットが幾ら「道化をやっていると孤独で死にたくなる」と言っても、奴隷の出であり今も警察に拷問されるショコラとは「道化をやる」意味が違う(だから二人は階段ですれ違う)。こうした溝は、ずっと後のある晩までは埋まらない。


更には同じ「黒んぼ」同士でも、意思なんて「内側」ですらない、「外側」からして大差がある。でもって弱者にとってこそ、そうした「差」の持つ意味は大きい。植民地博覧会の展示物として連れてこられた黒人と、塀の外の、高価な服を着たショコラ。「政治犯」のハイチ人が「ショコラが尻を蹴られる」ことを面白く思わないのには、サーカスの客席に白人しかいないことを思う。しかし彼には帰る「家」があり、ショコラには無い。


「フティット&ショコラ」の芸がたっぷり見られるのがいい。初めて組んで人前に出た時、フティットはショコラを蹴るつもりはなかったが彼が固まってしまったのでたまたま、というふうにも見える作りはうまい(もしかしてそのために、彼はショコラを蹴ることに慣れてしまったのではとも思わせる)。「光の都」パリに出てきて初めての、丸々じゃないかというほど長い舞台の輝きには胸が躍るし、二人の間の溝が深まってからの、実にひりつくような芸には胸を抉られる(フティットの役が「ゲイシャ」なのは、「今は吊り目が流行り」だから?)


オマール・シーの演技は、「目覚め」たことが明らかに分かる後半の表情など、全篇に渡って悪くないけど、私は物語においては「大した意味」のない、女に引き出しの中を見られた時の顔がとても好き(笑)一方でチャップリンの孫であるジェームス・ティエレの演技には、月並みな言い方だけど狂気を感じた。「おまえの好みは何だ」「家族はいるのか」と言われた彼が「地下」へ潜っていくのは、いわば「キャロル」と同じ演出だなと思い出した。