ソング・オブ・ザ・シー 海のうた



予告からは「民話そのもの」のような内容を想像していたんだけど、実に「現代」の話で、面白かった。曲線に直線や角を活かした絵は、何だか流麗なフォントのようにも見えた。その感じは、エンドクレジット時のいわば「オマケ映像」によって、いい意味で消えるんだけども。


映画が始まってすぐの(この「すぐ始まる」のが昨今貴重で嬉しい・笑)オープニングクレジットの際、画面の左下に現れる、多用されている渦巻とは対照的な、近づいたら自分が切れそうな線がやけに心に残った(まるでピアノ線のようだと思った)。それと同じ硬さを、冒頭の海辺でベンが手にしている、犬のクーに付けたリードに感じた。その線はやがて兄のベンと妹のシアーシャを繋ぎ、次第に柔らかになる。エンドクレジットでは絵柄が変わり、もうあのような線は存在しない。


「リード」の結び目が切れたら「物語をおさめた髪」を辿るというのがいい。髪の毛が「記憶」ならば確かに、まだ伸びているなら物語は「まだ生きている」し、抜ければ忘れられてしまう。尤もあの一幕には「まんが日本昔ばなし」の「そうめん地蔵」のラストシーンを思い出してしまったけど(勿論そこで流れるのは髪じゃなくそうめんだけど・笑)。ともあれ全篇通じて、髪の描写が印象的だった。セルキーの母娘の黒髪が、コート(日本で言う「羽衣」だけど、子どもの頃にそれに感じていた陰鬱な感じがないのが有難かった)を纏うと炎のように、というか人魂のように生き生きとなびくのが素敵。


海辺とシームレスに描かれる「海の中」は、私達の暮らしと地続きに、私達の知らない世界があると教えてくれる。都会のど真ん中の、車がばんばん行き交うロータリーの下に妖精達が固まっているというのも面白い。おばあちゃんが買ってきた「六歳の誕生日」の赤いドレスとお母さんの残した白いコートの対比や、二人が排気の匂いでバスが来ると察する場面には、「田舎」と「都会」との差異が表れているけれど、二人と一匹の冒険には田舎も都会もなく、あらゆる処で行われる。彼らはどこにでもいる。それが「あなたの物語や歌に私はいる」ということだ。


犬好きには嬉しい、わんこ映画でもあった。オールド・イングリッシュ・シープドッグのクーは「勇敢で忠実」な犬である。「フクロウの魔女(マカ)」(彼女のエピソードにはふと「インサイド・ヘッド」を思い出した、「現代的」なテーマである)が「嵐のように進めるよう」と唱えると、兄妹を乗せたクーの両隣に、ベンが読んでいた物語に登場する巨人マクリルの愛犬が現れる。彼らに導かれてクーが飛ぶように走る描写に、作中一番心躍らされた。