裸足の季節



(以下「ネタバレ」しています)


オープニングは女性教師が女子生徒を抱きしめている場面(予告を見ていれば、これがラストに繋がると分かる)。これは5人姉妹の末っ子のラーレが、自分を守ってくれる胸を発ちその胸に帰るまで、いや引き離されてまた辿り着くまでの物語である。途中、その胸へとラーレを送り届けるもう一つの胸、換言すればジャンプのいわば「踏み台」となる胸もあり、彼女がそこに走って飛び込む時には涙がこぼれた。
祖母はラーレを抱けないし、姉妹同士はくっつき合い、抱き合うことはしても、相手を抱き留めることはない。自分の代わりに見知らぬ相手と結婚することになった妹に配慮する余裕は無い、そういう年頃なんである。


先の場面で妹を待つ四人の制服姿が何とも好ましく、その後の海での遊び様も楽しく見た。私も10代の頃は勿論、30過ぎても服を着たまま海に入っていたものだ(私の「方が」恵まれていると言えばそれまでの話である)
ラーレが姉の逢い引きを目にした翌日にブラジャーを着けてみたり、新聞記事のサッカー選手の写真にキスしたりと、本作には少女の性への興味や欲望も描かれているが、冒頭の「肩車」の遊びの際に彼女達がそれを抱いていたか否かは分からない。そういう時もあるしそうでない時もあるし、そもそもそんなこと、どちらだって構わないはずなのに、女であれば、いつだって性的な存在と見なされてしまう。それは「今の日本」でも同じで、加えて「貞淑である」か「悪女である」かどちらかとしか見られず、性欲があるとなると、どんな男とどんな時にでもセックスしたいのだと思われてしまう。


帰宅した姉妹を祖母が一人ずつ部屋に閉じ込め折檻するのに、残りの四人が扉に張り付き抵抗する姿や、「告げ口」した「くそ色の服」のおばさんの家に出向き手分けしてドアやら窓やらを叩く姿からは、五人が一体である感じを受ける。しかしこれは、「五人」居るからこそのお話である。抑圧によって絞り出された要素が、一番下のラーレの性分と学習と混じり合って育ち、爆発する。
この物語が「複雑」にも見えるのは、社会のシステムが一枚岩であるのと同時にそこに生きる者は様々であり、理不尽な世界においては皆が同じ弾を同じ様に撃つことが無いからだ。結婚を例に取れば、社会の「やり方」がたまたま自分に沿う者がおり、仏頂面で酒を飲んでやり過ごす者がおり、生き抜くために死ぬ者がいる。ラーレに逃亡の話を持ちかけられた四女はむせて、食べていたクッキーを吐き出す。リボンで飾られた箱の中の甘いお菓子は、「自分」を麻痺させる薬だった。


ラーレと二女のやりとり「結婚したくないなら逃げて」「どうやって?」「車に飛び乗って」「でも運転できない」。映画において、女が運転するのは「自立」の象徴でもあるが、問題は、運転できない子どもの頃から「それ」を奪おうとするやつがいるということだ。子どもの努力だけでは駄目、大人の助けが必要なのだと描くこの映画は誠実だと思う。夜明けのバスでラーレが見るあの夢の内容は当然、当然の権利なのだ。本来は、誰か大人が、彼女たちを、安全に、風を受けて走らせてあげなければならないのだ。
この映画があの場面で終わるのは、「映画としても面白い」けれど、作り手(「トルコの新人女性監督」だそう)が、大人は子どもを保護するものだ(変な言い方をすれば、「保護しない」大人以外の大人は、保護するものだ)と信じているからに思われた。それが全篇に溢れていて、自分だって何か出来るはずだと改めて思った。


イスタンブールに着いたラーレが通りすがりの女性に道を尋ねる時、その光景のあまりの「普通」さに目がくらんだ。土地といえばそうそう、サッカーを見るのに「トラブゾンスポルのホーム試合に出掛ける」(姉妹はガラタサライのファン)のには、ファティ・アキンがゴミ処理場建設問題を追った(「トラブゾン狂騒曲 」感想)あのトラブゾンかと思った。舞台はあの近くの村なのかと、少しだけ「イメージ」が湧いた。