メイジーの瞳



オープニング、ピザの到着に階段を駆け下りるメイジー(オナタ・アプリール)の姿の小さいこと。ママのスザンナ(ジュリアン・ムーア)がパパのビール(スティーヴ・クーガン)を締め出すために新たに付けた鍵も、彼女にとっては目の真ん前なのだ。
原題は「What Maisie Knew」。小さいメイジーは物語の最初から何も「知ら」なかったわけではない。物陰から窺う「夫婦喧嘩」は今日に始まったことじゃない。しかし事情が変わり「うち」を探さなきゃならなくなった彼女は、小さな子どもにとってはロードムービーとも言える行程の最後に、あることが出来るようになるのだった。


(以下「ネタバレ」あり)


「家族」が題材なのに、とても「普遍的」な物語に感じられた。それはこの映画が、「他人」を「他人」として認めるということを描いているから。
印象的だったのは、「夫名義のマンション」に入れずブチ切れ、くずおれたマーゴに、メイジーが駆け寄り抱き付く場面(ラスト近くのママにも彼女は抱き付く、弁が立たないから気持ちを表すのにそうして「自分を捧げる」しかないのだ)。この時にマーゴは、誰の家族であろうとなかろうと、自分とメイジーとの関係は独立して在るのだ、と気付いたように思う。以降の彼女はリラックスして、しかしきちんと「他人」としてメイジーと向き合っている。バーでの「生ハンバーグに生卵」「そんなの絶対嫌!」なんて会話や、海辺の家の階段で「持てる?」とメイジーに荷物を任せることなど、それまでは無かったんじゃないかな。
全篇を通じて、大人達がメイジーの前で携帯電話を使いまくる場面も目立つ。誰かが居る場で了承を得ず携帯電話で話すのって、目の前の相手を「他人」として認めていないからだと思う。相手にその内容が分からなくても、失礼なことだ。特に園長先生、電話を切ってから来いよと。もっともそんなこと言えるのは、今の私が時間や物事に追われてないからというのもあるんだろうけど。


メイジーの周りの大人達4人はいかにも「対照的」なキャラクターで、満遍なく様々に、異なる要素を持っている。そのためだろうか、誰もの中に少々の「自分」を見つけて、誰もが私のように感じられた。
「お前は6番目に大事」「5番目までは教えない」とふざけるパパは、ママをコケにするのにも、メイジーとマーゴの前で「見つかっちゃやばい」と笑いを取る。「あなたが一番」とストレートなママは、パパのことをメイジーの前で「くそ」とはっきり罵る。二人とも、メイジー「欲し」さに身近な人物を「利用」しているのは同じ。ラストの、またしても遭遇した「あなたは昔の私みたい」というセリフには、ママの内面に思いを馳せるというより、だからメイジーだって、誰だってママのようになりうる、ということを考えた。
一方、メイジーの前に新たに現れたマーゴとリンカーンアレクサンダー・スカルスガルド)は、ルックスからして広告か何かに出てくるような「理想的」なカップル。しかし幻のようにも映る。3人が楽しい時間を過ごすのは、彼らのうちじゃない。メイジーが見るキスは、彼女がかつて見たかもしれないものと「同じ」じゃない、とは言えない。それともリンカーンの言うように「お金持ちになれない仕事」をしていれば、誰かとのああいう時間をずっと持てるのだろうか?
メイジーが「帰りたい」と言う「うち」は、あそこじゃないんだろう。だけど彼女は「NO」と言えるようになったし、大人達は「NO」を受け入れることを学んだから、これからはどこに居ても、これまでとは違う。


アレクサンダー・スカルスガルドのかっこいいこと!メイジーじゃないけど「I love him」。なぜこれが映画なんだと思い苦しい。それにしても、好きな女優が素敵な男性に嫌なことをする映画って、見ながら心をどう保っていいか分からないものだね…