サラの鍵




「いえ、母は…ユダヤ人ではありません」


パリに暮らすアメリカ人の記者ジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)は、「ヴェル・ディヴ事件」の取材を通じ、夫の祖父母から譲り受けたアパートが、ユダヤ人一家が強制的に追われた後に入手したものだと知る。彼女は収容所から逃亡した一家の長女サラの足跡を追う。


事前のイメージより、ずっと広がりがあり、エンターテイメント性の高い作品だった。
映画は予告編で何度も見た、あの場面で始まる。質素ながら可愛らしい子供部屋の奥に姉と弟がはしゃぐベッド、手前に猫、全篇に渡ってきれいな画面が多い。踏み込んだ「警察」はカーテンを引き、部屋を外部から遮断する。それからの一幕の後、同じアパートにやってきたジュリアはカーテンを開け、部屋に光を入れる。
以降、サラのパートとジュリアのパートが交互に進む。前者は手短な描写で鮮やかな印象を与える。収容所で親子が引き離される場面など強烈だ。サラの「脱走」のくだりでは、同行する少女とベタベタ助け合わないのがいい。一方が転んでも振り返って待つだけ。体力が無いのか、「脱走」成功者の「自分のことだけ考えるのよ」という助言が頭にあったのか。


ジュリアを演じるクリスティン・スコット・トーマスは、冒頭からやたら「少女」ぽく見える。口元に手を当てたり袖をつかんだりという仕草は他の作品でも目にしてたものだけど、豊かで分かりやすい表情(「関係者」に会える時の、嬉しさを隠しきれない顔!)も加わり、初めてそう思わされた。
そんな彼女に「共感」し、一途に「真実」を追っていると、終盤、人にはそれぞれ「事情」があることが分かる。こういう「衝撃」のある映画って面白い。もっとも私がある程度「鈍い」から、衝撃となり得るわけだけど(笑)冒頭のセリフや、彼女の夫の「アパートは売るよ、もう話題にしたくないから/どういう経緯があろうと、ぼくにとっては思い出の家だったんだ」というセリフが忘れられない。
ラストシーンでジュリアは「私ったら何様だったの」と口にする。相手はむしろ感謝し、二人は抱き合う。しかし彼女のやり方を受け入れない者もいる。それはそうだろう。


ヴェルディヴ(競技場)」(=「ヴェル・ディヴ事件」)について、私は今年公開された「黄色い星の子供たち」を観るまで知らなかったんだけど、本作中では、当のフランスでも、ジュリアの同僚である若者たちはその言葉を知らない。ジュリアが「その時パリにいたらどうする?」と尋ねると「うちでテレビで観るかも」と答える。



「あなたはその出来事を『理解』しようとしましたか?」
「今なら簡単かもね、でも当時はユダヤ人の悪い噂ばかり聞かされて
 それにどうすればいいの?警察でも呼べばよかったの?」