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「ジャーナリズム」の中にいながらセンチメンタルな男と、ジャーナリズムを利用して「本物」になろうとする男。変なやつに一杯喰わされた男のオフビートなコメディにも見えた…最後のカウンターでのシーンまでは。



川本三郎による同タイトルの原作は未読。
1969年、新聞社で週刊誌記者として働く沢田(妻夫木聡)は、活動家への取材に熱意を燃やしていた。あるとき、梅山と名乗る男(松山ケンイチ)が接触してくる。彼はセクトを作り、武器を奪って行動を起こすと宣言。


妻夫木聡演じる沢田が属する「東都新聞」は、私にはとても居心地悪そうに感じられた。女といえば「モデル」だけ(後に社員が一人いることに気付く)、社名のでかいロゴ入りの灰皿、先輩記者の食べる口元の汚さ…そういう「時代」なんだろう。しかしそうは感じていない、恐れるものの無い沢田は、理想に向かって猪突猛進する。その「理想」とは「自分の感情」を世に伝えること。会議では上司に「俺達は『社会の目』なんだぞ」と窘められる。この時点では、何が社会の目だ、偉そうに〜と単純に沢田に肩入れして観ていた。実際彼の「センチメンタル」な記事を楽しんでいる人々もいる。


松ケンは、役作りなのか?少々よくなった肉付きが、これまでにないほど子どもっぽい役に合っていた。恥ずかしいほど見え透いた、底の浅い男。しかしふとした瞬間に、つかみきれない輝きがある。
「何のためにセクトを作ったんだ?」と問われれば「君は敵か?」、「赤邦軍って何なんだ?」と問われれば「僕を騙したのか?」など、真っ直ぐ突かれればはぐらかす。身近な人物を持ち上げて利用する。長い者には巻かれる。べたべた汗をかきがつがつ物を喰らう。


女性の登場人物は胸に「美女」「非・美女」と書かれた紙が貼ってあるかのよう(「普通」っぽい女がいない)。週刊誌のモデルを務める少女(忽那汐里)の「達観」ともいえる落ち着きぶりには、全く男って(この場合、映画の作り手)中身は老成した女が好きなんだから…とあきれてしまった(笑)この女優さんの顔、とくに目がとても面白く、惹きつけられた。もう一人のヒロイン、松ケンに心酔している学生(石橋杏奈)も、くそ暑い中そうめん茹でるなど「理想的」すぎて気味がわるい。もっとも当時の「女性」ってそういうものだったんだろう。
終盤の少女のセリフは、当時に対する「今」の時代の感想のように思われた。原作にもあるのかな?


作中最も印象的だったのは、刺された自衛官が死ぬまでのカット。作中の誰もその場面は見ていないが、不自然に感じられるほど長い。つまり「人の死は重大なこと」なのだ。
沢田は「梅山は思想犯である」「ジャーナリストとして取材内容は明かせない」と自身の信じるものを主張し、死んだ自衛官については苗字すら覚えていない。ラストのカウンターにおいて彼は、自分が多くのものを見落としてきたこと、今ではどうしようもないことを悟り、ただただ涙を流す。忘れられたウサギの代償として差し出した紙幣に対する「旧友」の「そういうことじゃないだろ」と言う言葉は、ここへ来てようやく届いたのだ。
彼の周囲には、旧友だけでなく「写真を渡してしまえば社会部を非難できなくなるぞ」と気付かせてくれる先輩だっている。主人公も彼らも、どちらも「完璧」じゃない。しかし人との関わりによって、何かに気付くことはできるのだ。