ぼくのエリ 200歳の少女



銀座シアトルシネマにて観賞。2008年スウェーデン作品。
いじめられっ子の少年が恋した少女は、永遠に生きる吸血鬼だった。


どこにでもある青春のひとコマ…という感じの話ながら、撮り方がとても好みで楽しかった。ラストのプールでの一幕(何が起こるか予想はついてる、それをあれだけセンスよく見せてくれるなんて嬉しい)、それに続く最高のエンディング。
全篇通じて顔のアップが多く、見応えある主人公オスカーの表情が堪能できる。また、とくに始めのうちは、人物が一人ずつ画面の中に現れることが多く、どこか息苦しい、断絶めいた感じを受けた。


寒々しい団地に母親と暮らすオスカーの日常、まずはそれを観てるだけで楽しい。窓辺のミニカー、机の横の鏡、秘密のスクラップブック。水色のマフラーと茶色のブーツ。
友達のいない12歳のオスカーと、12歳の顔をしながら生きてきた吸血鬼のエリは、ともに「異端者」である。物事は、彼等が共にあれとでもいうように進んでいく。必然のように二人は惹かれ合う。しかしそんな二人の間にもパラーバランスとでもいうようなものがあって面白い。
初対面でのエリの去り際の言葉は「友達にはなれないわよ」。「そんな顔してたかな」と口に出すオスカーが可愛い。数日後、エリに貸したルービックキューブをジムの上に見つけた際の、極上の笑顔。会話を交わすうち、エリが誕生日ともプレゼントとも縁がない、自分なんかよりずっと「普通の子」じゃないことが分かる。彼女は吸血鬼だった。「目を閉じたまま、こっちは見ないで、入っていいって言って」。同じベッドの夜。やっぱり吸血鬼だった。「入っていいよって言わなかったら?どうなるの?」大人の真似をして彼女を馬鹿にしてみる。しかし血の涙を見て、思わず抱きしめる。



(以下いわゆる「ネタバレ」を含む)


ラストシーンが素晴らしい。二人はエリと死んだ中年男のように、吸血鬼とそれを助ける人間として暮らすかもしれないし、吸血鬼カップルになるかもしれない。とりあえず「お金はある」から安心だ(笑)
しかし、エリと男が暮らす部屋は荒れ果てていた、というか、何も手が加えられていなかった。オスカーと共に過ごす場所があのようになるとは思えない。やはり今のところ、彼は特別な存在なんだろう。「生きる」ことしかできなかったエリにオスカーはそれ以外のものを与え、エリはオスカーに「生きる」力を与えたのだ。


終盤、オスカーがエリの着替えを覗くシーンにおいて、エリの股間がアップになるが、(日本公開時には)モザイク処理がされている。その下に何があったのか?「女じゃなくても私が好き?」というエリのセリフからして女性器ではないだろうし、モザイクの大きさからして男性器だとも思えない。ということは「性器」はないのだろう。
吸血鬼であろうとなかろうと、「エリ」が、あるいは誰もが「男」でも「女」でもない可能性は常にある。股間に何も無いということを見せなくても、観客はそう想像できる。それを作り手がわざわざ映像にしているのは、(「男」でも「女」でもないという)「可能性」に気付いてもらうための手掛かり、あるいはそういう「可能性」の存在を主張するためだ。それを傷つけてしまうなんて、無体なことだと思った。