環状線の猫のように



イタリア映画祭2018にて、まずはリッカルド・ミラーニ監督の新作を観賞。面白かった。


少年が登場する際のスローモーション、モニカ(パオラ・コルテッレージ)が登場する際のスローモーションに、恐れと感銘はどこか似ていると思う。ジョヴァンニ(アントニオ・アルバネーゼ)がバットで開けられたのはまさに「風穴」だと思っていたら(イタリア語では知らないけれど、英語じゃあれは「防風板」なんだから)、最後に彼はそう言うのだった。「脾臓の切除」「店の爆発」は比喩じゃなくその通りなんだ、なんて数々の事例と共に。


モニカがジョヴァンニの家の溢れんばかりの女の裸の絵(と単に言うだろう、彼女なら)の中に現れた時、存在する時の鮮烈さ。私には死の中の生に見えた。このくだりは後に彼が「サンオイルがとれるだろ」と絡まれながら行列でもみくちゃにされるのと対になっているようだ。体そのものが体験をする、という映画である。ジョヴァンニがモニカの家の食卓でそれこそ「爆発」する場面にもそう思う。一緒にいるから爆発する。


キッチンに一人立つモニカの姿に、ひとりぼっちというより何かに縛られているような感じも受けたものだけど、それは空けたままの上座だったかもしれない。「バカンス」中の夫に対しジョヴァンニの優しさは染みたろう。「これは私のコップだよ」「あなたに注いであげるんだ」、「そんなことをしなくても出てくるよ/これで傷を拭いて」だなんて。いわば「きれいごと」を信じる人の素晴らしさが描かれているのがいい。だって優しいに越したことはない。


ジョヴァンニの妻が口にする「人間にとっては小さな一歩だが…」とは、そこでは命を持たない言葉だが、映画の最後にバイクで町をゆくモニカを捉えた遠景に、これこそそうじゃないかと思った。彼女のシャツに書かれた文字が、序盤にはギャグなのが、終盤には「LOVE」を着ながら息子に「愛してる」と言い(「ドント・シンク・トワイス」のケイト・マイカッチを思い出した・笑)、ラストシーンでは無くなる。それはこれからは自分で喋る、真に喋る相手が出来たということかもしれない。

純粋な心



イタリア映画祭にて観賞。これも面白かった。


冒頭には奇妙な感じを受けた。少女アニェーゼが苦しい顔で逃げるのも、苦しい顔で話を聞くのも、母のやることなすことが原因なのに、母に寄り掛かっている時だけ安らかな顔をしているのだから。同じ下着(!)で眠る娘は母の「分身」のようだが、気持ちのよさそうなベランダの空気を変える短い会話、結局は取り上げられるマニュアル車のハンドル、「手を洗ったら出ていくわよ」なんて言葉に見ている方の息は詰まってくる。


青年ステファノがアニェーゼと母親の車を「追いかけて裏へ回る」のが面白いと思っていたら、これは難民キャンプを表から見る者と裏から見る者とが出会う話だった。「従業員専用の駐車場の警備員」とは、ここ数年映画に描かれるようになった、「あいつらのせいじゃないけど、自分はあいつらとは違う」と自らの境遇に複雑な思いを抱く、(主に)白人の(主に)男性、彼の父のような人々の代わりを務める仕事なのである。ここでは立ち退き要素は、見下ろしている「彼ら」と自分とが並ぶ存在になってしまうのではという恐怖と共にある。


見ながら何度か「息が(「も」じゃなく)できない」という言葉が浮かんだものだけど、二人のセックスは、まさに一時息をつくために行われる。変な言い方だけど、あれだけ血が出ようと、どうってことない行為なのだ。原題の日本語訳であるタイトルは、ラストシーンに生きる。「私は純潔でいたい」に対する激しい答えである。


環状線の猫のように」と「純粋な心」には、バットとそれによって割られるガラスと海、いやそれ以前に同国人同士の男と女の話という共通点があった。今やそれが映画の特徴になる。どちらの映画でもそのことに意味がある。海はそう、後者ではおそらく、誰のものでもない場所なのだろう。二人でいれば二人のもの。