カメラを止めるな!



(少々「ネタバレ」しています)


顔合わせの一幕を締める日暮監督の困り顔にふと多幸感を覚え、そうか、皆がこの映画を好いているのは、全ての人、大仰に言えば森羅万象への愛があるからなんだと思い至った。でもそれは何者も批判しないことと紙一重、つまり積極的な愛とは言えないんじゃないかとも考え、心にがっちりとははまらなかった。赤ん坊は泣くものだしアル中は飲んでしまう、全てが並列だ。「日本軍」や「人種問題」なんて言葉をおよそ躊躇なく使えるのもその「愛」ゆえだろう。


振り返れば映画の始めの「監督」の「お前の人生がうそばーっかりだから!」は、生き残るために「安い、早い、…そこそこ」をキャッチフレーズにしている自分とそうさせている世界への苛立ちとも考えられる。監督であって監督でない「彼」は、「目薬」と「考えすぎ」両方の極にその思いをぶつけるのだった。


日暮監督が「そこそこ」から今こそ脱け出す場面の背後にタンポンが積まれているのがよかった。「今」の監督は生理ネタを入れてくるものだ。いや「ポン」ネタだと分かっちゃいるけれど、タンポン?それでいこうってな軽い感じがいい。海外での上映では伝わらないであろうのが残念。まあこれも、単に「全てを等しく扱う」心の表れと捉えると評価が変わってくるけれども。


エンドクレジットで「赤ん坊」の名前を目にした時、「オリ・マキの人生で最も幸せな日」(の、同様にエンドクレジットで判明するあること)を思い出しいい気持ちになった。役名と役者の名前が似ているのにはマイク・バービグリアの「スリープウォーク・ウィズ・ミー」の主人公が「Matt Pandamiglio」だったことを思い出すと共に、上田監督は演技についてあのような考えを持っている監督を主人公とすることについて(「仕掛け」があるとはいえ)どんな気持ちだったろうとふと考えた。「普通」なら映画の中の映画監督には作り手からの何らかの距離(近いにせよ、遠いにせよ)を感じるものだけど、ここにはそういうものが無かったから。