平日の記録



高円寺に出向いた際、これを機にとめったに行けないフロレスタに立ち寄り、ころころチェブ・クリスマスドーナツを購入。チェブラーシカのころころした首が乗っているだけ、とはいえ可愛いし美味しい。ピンクは苺、緑は抹茶のチョコレート掛け。
1200円以上のお買い上げでプレートがもらえますと言われたので、他のドーナツも幾つか買って、お皿も入手。何をのせよう。


西武池袋本店で用事の折には、インテリアショップで行われているフィンランドデザインポスターフェアをのぞく。家具の中に展示されているのを見て回るのも悪くない。
家具を買う余裕は無いので(笑)売り場で見つけた冊子「楽園が呼んでいる」を購入。ナショナルミュージアムで開催されたヴィンテージ旅行ポスター展の内容をまとめたものだそうで、めくると楽しい気持ちになる。

文七元結ではない文七元結の会



開口一番(三遊亭あおもり「狸の鯉」)
橘家文蔵文七元結異談」
 (中入)
三遊亭白鳥「聖橋2017」
 (12/5・らくご@座・高円寺


よそで「文七元結」が出回る前にと?開催された「〜ではない会」は、開口一番(あおもりさんの「狸の鯉」よかった☆)の後に高座に上るのをためらってみせた文蔵の「文七元結ね〜」で始まった(笑)


文七元結異談」の開始早々、というか橋の場面までは普通の文七だから、まあそれを改めて聞いて、映画「希望のかなた」を見たところなので、ギャンブルやりたいなら一人になってやれよ!と思ってしまった(笑)そもそも私はこの噺が嫌い。「家族以外の人」の「命の危機」を救う心の機微なんてのはどうでもよくて、その前に家族の、命までいかない危機を無くせよと。落語を聞くなよと言われそうだけど、こういうことを考えるたび、確かに十年後に私はもう落語を聴いていないかもしれないと思う。
文蔵らしいのは、近江屋の主人の卯兵衛が「文七の碁もばくちとかわりゃしない」と言うところ。長兵衛と文七は「同じ穴の貉」だというわけ。「誘われたからって言い訳にはならない」。もう一つ面白かったのは、佐野槌の女将が手文庫(とは言わなかった、「二階の箪笥の中の箱」とか何とか)を女の使用人に持ってこさせるあたりで、この大店に「女の園」、というよりどこか「アマゾネス」めいた感じを受けたこと(笑)


白鳥さんの「聖橋」は「(略)そんな芸人の気持ちを想像して作ってみました」で始まるんだから元よりテーマが違う(笑)本人は「主催者の方に頼まれたので昔やったきりの録音を聞いてみたけど、演らなくなるのには理由があるわけで…」と言っていたけれど、私はこれ、全然いいと思う。白鳥さんの中での「奇をてらうこと」と「創意工夫」との違いが分かる。「落語家さんが実名でばんばん出てくるので…」という前置き、いや前もっての釈明にしても、彼らの役は「落語家」なんだから、いわゆる楽屋落ちじゃない。「落語家が落語を演る」噺って新作落語の中でも案外ない。映画作りを描いた映画を見るのにも似て(似て、ね、あくまでも)やっぱり面白いよね、そりゃあ。
ねじ込まれた文七の一部は「志ん朝の…」だから「ぶったりけったり」なんだよね(今は「ぶったりはたいたり」だよね、皆)。「サゲがあまりに馬鹿馬鹿しい」のくだりは、私は白鳥さんのサゲの捉え方を知っているから(どこかで書いているか喋っているかしてくれているから)、あのオチはさもありなん。ともあれ声の調子もよく、最高だった。

永遠のジャンゴ



やけに「椅子」が印象的な映画だった。キャラバンに、教会に、誰かの手によって並べられていた。椅子とは居場所である。「希望のかなた」でシリア難民のカーリドがロマの女性にお金をあげようとする(と制服を着た二人組に登録証の提示を求められ、結果的に彼と女性との繋がりが断ち切られる)シーンにおいて、ホームレスの彼女は地べたに座っていた。


オープニングの一幕を経て、今日も遅れて楽屋入りしたジャンゴ・ラインハルトレダ・カテブ)のステージ。その手付き、佇まいに、何かこう、既に出来上がっている、とでもいうようなものを感じた。後に体のあちこちを「調査」されるくだりは「サーミの血」を思い出したけれど、あちらがこれからの人間なら、こちらは既に確固たる人間といったところか。それが破壊されそうになる。あることを決意する、あるいは決意した彼が自宅で眠りにつく姿にはふと「起きて半畳、寝て一畳」という言葉が思い浮かんだ。それくらいの場所、なぜ侵すんだと。


「モンマルトルの夜の女王」と紹介されるルイーズ(セシル・ドゥ・フランス)は、パリに戻ってきた独身女。冒頭のステージ後の食事から店にはしごするシーンで不意に、映画のストーリーには関係ないであろう(作り手が考えていないであろう)、男の中に女一人でああいう席に居る心境を想像した(その後、彼女は客の女達と踊る)。ジャンゴの妻に「彼は美しいものを作れる人」と言う彼女は、彼に対する自身の気持ちを「私のために」「遠いところで」演奏してほしいと表現する。非の打ち所のない、よく出来たセリフである。しかしこの、何もかもが「自然」な、「自然」であるために必要な全ての要素を満たしたような女の造形はうさんくさくもあった。


一番苦く感じたのは、ジャンゴらがレジスタンスに「若い男が必要だろう」と仲間の保護を持ちかけなければならなかったところ。「役に立つこと」と生存とを引き換えにしなきゃならないなんて。それが成立すると、ジャンゴは「女や子ども、老人は?目を見て答えろ」と迫るが叶わない。一番心が乱されたのは、晩餐会で演奏が激しくなり、会場も乱痴気騒ぎになるところ。言ってみれば俗っぽいサスペンスシーンでもあるんだけれど、少しずつ、あらゆることがはみ出していく奇妙な感じを受けた。映画のラスト、パイプオルガンの前に立つジャンゴの姿には、場面転換の前のあれを彼は昨日のことのように覚えているだろうという確信が不意に心をよぎった。