サンキュー、チャック


最初に提示される第3章の終わりには、この章が「何」であるかがはっきりする。私は子どもの頃からあのように感じているから原作小説は知らないけれど見当がつき、とはいえ解釈の違いがあるからこそ色々と面白かった。例えば教師のマーティー(キウェテル・イジョフォー)が保護者から聞かされる「妻が高校時代の恋人と駆け落ちした」話を始めかつて愛した人と再び時間を過ごすことばかりが語られるのは「世界の終わり」描写としてはえらく感傷的だが、現在のチャック(トム・ヒドルストン)の意識がそうさせるんだろう。私の世界ならどうなるだろう。「ドイツで火山が爆発」などの自然災害が多発しているとの話は、そのような感傷が通用するのは「ここ」だけだとも思わせる。マーティーが道中出会った老人(カール・ランブリー)の「おれたちが環境を破壊したせいじゃない」はどう捉えていいか分からなかった。

チャックの人生には学校の先生による影響がずっとある。ホイットマンの『私自身の詩』を教えてくれた、それについて質問したチャックに応えてくれたリチャーズ先生(マイク・フラナガンのパートナーのケイト・シーゲル演)はもちろん、晴れ舞台の日にダンスクラブのロールバッハ先生(サマンサ・スローヤン)が、彼が足を怪我したなんて言う理由は分からずともそれが嘘であると見抜いてアドバイスをする、あれが大人の役割だとじんとした。現在のチャックのいわば頭の中でホイットマンを取り上げるのは実際には隣のクラスの先生だったマーティーになっており、ロールバッハ先生も出てこないが、それもまたよかった。大切なのは話の内容で言ったのは誰かということじゃない、とりわけ教員という仕事においては。

最後に提示される第1章…チャックの少年時代から青年時代までが「僕の中には宇宙がある、僕は素晴らしい存在だ、生きる価値がある存在だ」で終わるのは、彼がそう唱えなければ生きていけなかったことを表しているのだろうか。「僕は素晴らしい」と実感し唱えた時に怪我をした偶然を世界に釘を刺されたように受け取り、妻のヴァージニア(クオリアンカ・キルヒャー)に言えなかったのだろうか。あるいは祖父アルビー(マーク・ハミル)の言うように一番つらい「待つ」ことをしてきた時間に共にあったのがその言葉なのだろうか。