
イタリア映画祭にて観賞、2025年ラウラ・サマーニ監督作品。
「あいつは二人のキスを見て動揺したんだ、お前のせいだ」「なんで私だけ?二人でキスしたのに」(自動ドアの向こうにハグで慰め合う男二人、うち一人がキスの相手)に端的に表れているように、男の問題が女のせいにされることを学生同士の付き合いを通じてじっくり描いた胸糞悪すぎる(ことが描かれている)映画で、その加害のリアルさにトリガーアラートが必要なほどだと思った。
トリエステの国立工業専門学校の男子ばかりの最終学年に転校してきた少女フレッド(ステラ・ウェンディック)は、最初から最後まで酷い嫌がらせを受ける。直接加害はせずとも人払いをする程度で助けない、混ぜっ返すだけで問題にしないのだから終盤に彼女が言うように男全員が加害者なわけだけど、この映画のうまいというか辛いのは、フレッドが「集団に馴染んでいない」少年達と仲良くなるが…という展開である。「おれらはあいつらとは違う」「こいつはただの友だち」と言いながら、彼らは彼女を「おれら」と同じには扱わない。
誰かに対して友だちと思いつつ、あるいは言いつついわゆる性愛の欲望を持つこと、同意の上で実現すること自体はどうこう言われる筋合いもない。でも女のそれは「引っ搔き回す」と責任を負わされ非難される。結局のところ向かいの学校の女子生徒達のように始めから「女」としてしか付き合わないのが「わきまえている」ということになる。わきまえず異性愛者の男と友だちなんかになろうとしたフレッドは最後に自分なりのわきまえをすることになる。
登校初日の体育の授業で着替えを盗まれ(こういうのを見ると思い出すんだけど、いわゆる羽衣伝説には子どもの頃から超、怖くて不愉快になったものだ)バスタオルを巻いて帰宅したフレッドは父親(マグヌス・クレッペル)の声に部屋のドアを閉め、「どうだった?」の問いに「ポルノの冒頭みたいだった」と返す。笑うだけの父親には驚かされたが、女性教師が「文明国だから」などとふざけたことを言うスウェーデン、というかフレッドの家庭にしたところでそういう環境だったわけで、彼女は順応しているから被害を学校にも親にも訴えず受け入れて流すのだ。娘が売女と誹謗されているのに「りんごとキウイを一緒にしておくとキウイが熟成する、お前はりんごだ、変化を促すんだ」には何でこっちが、女はこういうことを言われてばかりだと怒りが蘇った。全く全てが糞で私としては学校爆破で終わらないと気が済まないところだった。舞台は作中流れるニュースからして2007年、これは監督の体験が元だからなのか、時代の差異も踏まえてなんだろうか。
思えば「糞バー」での「ママの上着だったのに…」を三人が真剣に取り合わないところで不安になったのだった。一人が代わりに出した高そうな上着をフレッドは羽織り皆ではしゃいで帰るが、「なくす…他動詞」で彼女が自ら切ったものは何だったのか、貼られた紙を見た微笑に私が感じたもので正しかったのだろうか。