スターストラック わたしがアイドル!/マイ・ガールフレンズ・ボーイフレンド

サム・フリークスVol.34にて「ライヴ映画2本立て」を観賞。


▼『スターストラック わたしがアイドル!』はジリアン・アームストロング1982年、オーストラリアでの二本目の監督作品。オープニング、電話ボックスの中のジャッキー(ジョー・ケネディ)の左右違う色に先のとがった靴、赤い髪に真っ白ではない歯…。

ジャッキーのステージの後でアンガス(ロス・オドノヴァン)が駆け込む控室ではタバコに酒にセックス(「女」とは感じさせないあたりがやはり女性による作品)が繰り広げられているし、ジャッキー自身も「そんなガキみたいなこと」と言うし、ティーンエイジャーは皆大人になりたがっている。ロビー(ネッド・ランダー)がギターを弾くウォンバッツ(!)のバンと同時にジャッキーとアンガスを乗せたオープンカーでパブの前に到着する(この場面好き)人気タレントのテリーが多分理想の大人で、彼女はあわよくばロビーからテリーに「乗り換えたい」(セックスしたい)と思っている。しかし彼は実際には「歯車」であり、彼女にもそうなるよう勧めてくるのであった。

あの頃の少女漫画、正確にはもっと前の数々の作品から、主人公は大人の女に憧れていたものだとふと思い出した。でもどんな?身近な女性といえばジャッキーの多忙なママ(マーゴ・リー)は隠れてよくしていた義理の兄に金を盗られて逃げられるし、ナナおばあちゃん(パット・エヴィソン)は入れ歯を飲み込んで意気消沈。高速道路脇(というのは今の映画でもそうであるように取り残されていることの比喩だろう)のパブはろくに泡も立たないビール代が払えず立ち退きの危機にある。それが最後の自由なステージの後ではテレビ局のスタッフ始めあらゆる大人が楽しんじゃって、もう死ぬかもなんて言っていたおばあちゃんも水晶玉を出して得意の占いを始める。スターってそういうことかと思う。

しばらく前に見た『大丈夫、大丈夫、大丈夫!』(2023年韓国、感想)では男達が女達の中に踏み込まず支えるだけの役どころだったのが印象的だったものだけど、ここでもそうで、確かにこれが女の子映画の一つの正しい形だと思う。「ジャッキーこそ真のスターだ」と駆け回るアンガスは勿論(この辺りはドラマ『無人島のディーバ』(2023年韓国)を思い出していた、こういう作品って逆に最近ない)、ボーイフレンドのロビーが他の女の子に好かれている描写がちらとあるのもいかにもだ。


▼マイク・バービグリア2013年のスタンダップスペシャル『マイ・ガールフレンズ・ボーイフレンド』はシアトル公演の収録。後年なら「地雷原をいく」(言葉ママ)と言いながらなされそうなネタが特段ことわりなしに進んでいくのには、ああいう言葉、あるいは文脈の大切さをひたすら訴えていたNetflixでの一作目『マイク・バービグリアのジョークの神様、ありがとう!』(2017)自体が配信されることを踏まえてのものなのかなと少し考えた。

「Tボーン」の場面に始まって時間を巻き戻して「Tボーン」に戻るという映画みたいな構成。その内実はパートナーのジェニー(なぜ「クロー」なのか聞けるのかと思いきや聞けなかった)との出会いから結婚まで…という意味では子どもを持つのに至る『マイク・バービグリアの新しい世界!』(2019)と同じだが、こちらでは映画で言うなら回想シーンの数々が見事に挿入され、更に「正しいこと」へのこだわりからの解放が伴う。タイトルは自虐ではなく、いまや受け入れた「正しくないこと」の意なのかもしれない。

(いちおう書いておくけど、映画みたいというのは、落語がそうであるように、私はその人が喋るのを見たいのであって、映画にすればいいのにという意味ではない)

なぜセックスが車の運転に通じるのか(『新しい世界』参照)と思いながら聞いていると、かつての彼にとってキスすることは「『キスしていない組』からの卒業」、恋人ができることは「ミッション完了」、すなわちキスや交際そのものではなくその社会的意味とのしぶしぶのつきあいであり、結婚だけはそれにのるまいと踏ん張っていたわけだ。それがジェニーとのやりとりでほぐれていく。これが人間関係というものだ。