Riceboy ライスボーイ


母ソヨン(チェ・スンユン)がお昼に持たせたキンパと汁を捨て美味しかったと嘘をつき、明日からは皆と同じ物をと頼んだ息子ドンヒョン(ドヒョン・ノエル・ファン)は、デービッドと名を変えられ16歳になると(イーサン・ファン)更に「皆と同じ」になるためカラーコンタクトを入れ金髪に染める。しかし同じにはなれない。授業中など他の生徒は物を食べたり投げたりと気楽なものだが、おい韓国!と嫌な奴にいつ呼ばれるか分からない彼は常に気を張っている。マヤ・アンジェロウの引用からの家系図作りの宿題にも、兄のを写すという親友ハリーと違い縮こまってしまう。こんな課題の出し方は無神経だが、結果的には(旅の切っ掛けが…というのは少々釈然としないが)彼もソヨンもルーツに還ることが自信に繋がる。この、学校側からすれば荒療治に近いやり方は、ソヨンが幼いドンヒョンに暴力を行使しても…と教えるのにも通じる。マイノリティは正攻法じゃやっていけない。

ソヨンはドンヒョンに『沈青伝』(父親のために娘が身投げする孝女もの)を読み聞かせ、イビャンア(養子)として育った恋人サイモン(監督のアンソニー・シム)にあることを打ち明けた際には「高麗葬」(日本で言う所の「姥捨て山」)について語るなど、韓国(朝鮮)のいわば道徳的な文化を伝える。しかし現実を生きるとはそうではないというのがこの物語だ。息子と韓国へ旅した後の、映画の終わりの彼女の「家へ帰ろう」に家とはどこだろうと考えるに、それは自分が家だと思う場所…ドンヒョンからして死んだ父の実家でもなく、「家で私らと朽ちるのは忍びないから」(この感覚は「一般的」なのだろうか?)と祖父がその骨を埋めた山頂の墓でもなく、二人が共にしてきたあの食卓なのだと思う。序盤に四つある内の空いた席へカメラがそろそろ近付いていくのに、この映画が死んだ父親の視点だと分かる。そこが埋まらないのにもう片方にサイモンが座るのが、デービッドには納得できないのだとも。

家は大人と子ども、女と男が交差する場でもある。大人の女であるソヨンは工場で同じ韓国から来た女性に声を掛けるのを皮切りに数年後には色々な国の女性とテーブルを囲んでいるが(『しあわせな選択』(2025年韓国)にもそれに通じる描写があるが、女は競争に参加できないのでそうしているのだとも言える)、男であるデービッドの方は同級生と女子を肴にし親友の家にポルノのビデオを持っていくことで居場所を保っている(そして少なくとも現地の白人男性は大人になってもそのままである、工場での描写によれば)。最後に現れる境界が、同じ韓国出身でも「シングルマザーが男と同棲するなんて、結婚するならいいけど」という文化で育ったソヨンと、彼女の「あなたは外れくじを引いた」に「そういうのはやめよう」ときっぱり言うサイモンのダンスシーンである。最後のキスは私には別れのそれに感じられたが、あれは物語の途中で、ソヨンが帰った暁にはきっと、残りが夕陽以降の命であっても二人は再会するのだと…してほしいと思う。