そして彼女たちは


ジェシカ(バベット・ヴェルベーク)が診察してくれた看護師に抱きつく姿に、自分の中に命があるのに一時間も静かな時、心音が速い時、どれだけ心細くなるだろうと思う。そうした実感のこもった一場面、一個人といったいわば「点」の周囲が次第に広がり世界が見えてくるわけだけど、今回の本作はその「点」が複数。まず見えてくるのは、先日の『決断するとき』(2024年アイルランド・ベルギー)では主人公以外ほぼ存在しなかった大人の男達が彼が若い母親の手を引く時のみ遠巻きに見ている画に表れていたのと同じ、暴力的といっていい程の男達の無関心や逃亡である。彼女らが親という時、それは母親のことだし、その母親が親について話す時も母親のことである。

先のジェシカが抱きついた看護師に噛みつきまでするのを始め、子の父親と「愛が冷めた?私に触れないなんて」「セックスを嫌がるから」「それは嫌だけど触れてほしい」なんて分かりやすいやりとりをしていたペルラ(ルシー・ラリュエル)がスタッフの手を握ったり、子を託児所に初めて預けたジュリー(エルザ・ウーベン)がバイクの後部座席からディランのポケットに入れた手で彼をくすぐったり、母親は皆、身体的な触れ合いを求めている。彼女達自身がまだ子どもであることに加え、ペルラが姉に「赤ちゃんと二人きりじゃ心細い」と言うことから分かるように、子と一緒だからこそ孤独なのである。だから一人じゃないと実感したい。

スタッフいわく「支援施設は託児所じゃない、育てるのはお母さん」。ゆえに子の父親からの途絶えた連絡を待っているスマホをしまうよう言われながら赤ちゃんの体を拭いたり、自分を「捨てた」母親(インディア・エール!)に出産を伝えて帰りが遅くなったことを注意されながらミルクをやったりすることになる。妊娠出産したがための気苦労で赤ちゃんの面倒を見るのが難しくなるという矛盾。ディランの友人やお茶の席でのスタッフの「あなたが頑張った」が本当に正しく…これは学校でも同じだけど…一番辛いのは、一番頑張ったのは本人である。

映画の終わり、ジュリーとディランは子のミアを連れて電車に乗り、ある女性を訪ねる。結婚の証人の依頼なんて嬉しいけどなぜ私なの、と問われたジュリーは「先生が教えてくれた詩(アポリネールの『別れ』)を辛い時いつも思い出していたから」と答える。「秋はもう死んだ、覚えておいて、私が待っていることを」…先生はピアノでその歌曲を弾いた後、ミアが楽しめるようにとトルコ行進曲を奏でる。いかにも学校の先生、すなわち市井の人の手によるといったタッチの演奏(実際に教員じゃないにせよ、あの女性が弾いているんだよね?)が素晴らしく体に染みた。