
テンポがいいというより速すぎて異様なのは、「嶺南から数千キロの長安まで新鮮なライチを届ける」なんて任務、やらなきゃなんないの?という私達の感覚を麻痺させ、「失敗に終わるにせよ成功にどこまで近づけるか試してみたい」という算術の天才の主人公・李善徳(ダー・ポン)と共に突っ走らせるためである。そうは言っても工夫が鮮やかであるほど(『美味しんぼ』のサラダの回が心に残っていた私には運搬方法の予想がついたもんね!)こんな仕事のためにという気持ちが先立ってしまい、とりわけライチを積んだ馬車がマスゲームよろしく整然と出発を待つ様子などどういう心持ちで見ていいのか分からず混乱してしまった。
李善徳がライチの木の乱獲に抵抗した阿僮(ジュアン・ダーフェイ)を切りつける役人にやめてくれと向かって行ったり、宿場から人々が消えた理由を残された書物から飲み込んだりする場面は奇妙なほど唐突に切られるが、それは理不尽に気付きながら止まることのできない彼に私達も付き合わなければならないからだ。呑気な長安を抜け民衆の血を散らしながら一人馬を駆る李善徳、届けたライチが大写しになるところから映画のテンポは「普通」になる。アンディ・ラウ演じる楊国忠と彼が話していた場所がどこだったか分かる画が作中一番よかった。
安禄山の乱で長安が陥落したと聞いた李善徳がライチをむさぼりながら泣く場面は私には意味がよく分からなかった。杜甫という友人もいたし長安が好きだったのだろうけど(冒頭のやりとりによれば長安とは「知性のある者」が二人以外いない都市だ)。映画に沿って言えば、長安がおちたのは彼が楊国忠に詰め寄る「ライチ(皇帝の望み)と国家(民衆)とどちらが大切なのか」の答えが前者だったからであり、若い頃から国のためにと身を捧げて頑張っても無駄だった、エンディングに流れる歌のように「私がいなくても長安は回っていく」ことを痛感した、ということなんだろうか。
韓国の映画やドラマにもままある女性が男性を叩くという要素は、例えば本作の場合は女性の立場が弱くそれくらいしか出来ることがないとはいえ全然面白いと思えない。それしか出来ることがないという事実の隠蔽のようにすら感じられる。後に李善徳は「愛する人(妻)が望むなら宰相(楊国忠)に逆らわない」と口にするが、私はそれを言われても嬉しくない、言う側になりたい、正しくは誰もが(愛する人を持つか否かという点含め選択肢があるという意味で)その立場になれる世の中が一番だよなと思ってしまった。