
複数の登場人物が交差する映画は幾らもあるが、同じ社会…同じ街にいるなら繋がっていて当たり前という感覚を覚えるこのような映画は希少だ。姪のテクラが残した住所の建物を訪れ「彼女はこれを望んだのか」と動揺するリア(ムジア・アラブリ)に「選択肢がなかったのかも」とアチ(ルーカス・カンカヴァ)は言葉をかけるが、弁護士の資格を取り人助けをしているトランス女性のエヴリム(実際にトランス女性のデニズ・ドゥマンリ)が生きるのは確かにそういう世界である。彼女と初対面の男性の「トランス女性よ」「聞いてない」なんてやりとりもそんな中で互いに致し方なくなされる。
元歴史教師のリアの人となりは、妻が赤子にやる乳も隠すよう小言を言う教え子が「上品な女性なんだ」と評することから察せられる。踏み越えないことを自己にも他者にも求める教員だったのだろう。仏頂面の彼女が作中初めて表情を変えるのは、アチが「ジョージアと変わらないじゃんか」と言う国境を越えてすぐの街で金を売る時、すなわち愛想よくする必要がある時。「先生」として通していた、それこそキュウリやトマトを盗んでも更にデザートまでもらえた故郷と異なり、旅に出ると自身を変えざるを得ない。
テクラと「タバコ友達だった」というアチはイスタンブールでもタバコでもって色々な人と繋がるが、バスの中で回ってきた「歯型のついた」お菓子で食あたりするのを始め目に入れば何でもがつがつ食べまくるのが面白い。タバコが縁で出向いたパーティの翌朝リアのためにカフェのバクラヴァを三つ、彼女の方は彼が好きだったなと宿の朝食のパンをそれぞれ持って出るがすれ違う。しかしそんな日も、とりわけリアにとっては人生における新しい一日になるのだった。
テクラに会えなかったリア、アチ、エヴリムのダンスを見ながらここで終わるのかな、いやちょっと違和感が残るなと思っていたら、この映画はリアが自分やテクラの母は間違っていた、何もしてあげられなかった、時間を無駄にしてしまった、ここで彼女を探し続けねばという心境、決意に至るまでの旅の話であった。変わるべきはどちらか、何をすべきかとはっきり言って終わる。イスタンブールのトランスジェンダーのコミュニティで「本人は探してほしいと思っているのか」「探しに来てくれるなんていい母親だ、うちは来てくれない」との意見が出ていたが、どちらも真実で、こちら(リア)の側がいかようにも変わるべきなのである。
この映画には猫ばかり映っていたけれど、イスタンブールといえば私には犬の印象の方が強い。ファティ・アキンの『クロッシング・ザ・ブリッジ』(2005年トルコ・ドイツ)などにこんな画があるからだろう。同じイスタンブールが舞台でも『猫が教えてくれたこと』(2017)には犬が殆ど映っておらず『ストレイ』(2020、他の土地でも撮影したそうだけど)では猫が一度しか出てこないんだから、切り取り方なんだろう。
今見たんだけど、イスタンブールの野良犬のリラックス具合よ(野良犬と難民を重ねた『ストレイ』なんて映画にもよくよく描かれてたけど、ちょうどアキンが『クロッシング・ザ・ブリッジ』を撮ってた頃?2004年から、トルコでは動物権利法で路上動物の殺処分が禁止されている)https://t.co/rbOHM7aCUY pic.twitter.com/9PCQqsiqCe
— yako (@yako802) 2024年3月28日