
「ネリーに気をつけろ! ネリー・カプラン レトロスペクティヴ」にて三本を続けて観賞(上映作品のうち『パパ・プティ・バトー』のみ持ち越し)。
「どうして今まで旅に出なかったんだろう」
「相続しなかったからさ」
『海賊のフィアンセ』(1969)と『シャルルとリュシー』(1979)は赤いペタ靴に水色のワンピースの女が労働中に男から毎日の嫌がらせを受けるのに始まる。それらを脱いだ後、前者のマリー(ベルナデット・ラフォン)は家から動かずして…だって、何で動かなきゃならないの?…自由を得るが後者のリュシー(ジネット・ガルサン)は動いて…相手が変わらないという意味では動かないとも言えるが…自由を得る。ノック(に聞こえる)音が彼女らを脅かす。リュシーには目を見合うシャルル(ダニエル・チェカルディ)がいるがマリーには母とヤギが殺された後そんな価値のある相手もいないので、スクリーンに『海賊のフィアンセ』を見に行くんである。
若い頃、自分は快楽を一切もらえないのに他人は自分から快楽を搾り取ろうとする(性加害などのこと)、それならその「差」はお金で埋めるしかないと考えていたけれど、『海賊のフィアンセ』はそれについての話だ。ジプシー(字幕)の母と娘のマリーは日本に生きる日本人である私のような特権も持たないので逃げ道もなく突き詰めるしかない。カプランはマリーをしっかり生き永らえさせ最高にすてきな衣裳で去らせてくれるが、そこに至るまで不安で辛くてしょうがなかったのは(母親の死体を運ばせ埋めさせる時点でもう、男達を集めて火を付けるんだと思いながら見ていた)、それこそ「ろくな終わりにならない」などの呪縛で植え付けられた私自身のミソジニーのせいだろう。
ぺこぺこのお腹を抱えて市場をさまよう二人に合わせ、シャルルとリュシーは心配だらけ、お金もなけりゃ友達いない、家族もいない…と主題歌は歌うが、後にシャルルの弱音にリュシーが言うには「シャルルとリュシーは最高に最強」。『シャルルとリュシー』はジャンル「相手以外に友達のいない夫婦」ものである。『これからの私たち All Shall Be Well』(2024年香港)などを見た後には、私もそれを享受している、異性愛者同士の夫婦ゆえの贅沢とも思ってしまうけど。自分は両手、相手は片手の荷物でドアも開けてもらえないなんて私なら一人の方がいいけれど、二人は相手無しでは生きていけない。一般的に「男」や「女」が相手にもたらすとされている「金」や「世話」じゃない価値を互いに認めているんだろう。
小銭や食事のために歌手のリュシーが歌う歌詞は「鳥を逃がしてあげよう」「政治家は馬鹿、日曜日は選挙に行こう」。それを聞き鳥を逃がして母親に大目玉を食らう女の子以外の皆から大ブーイングを受ける彼女を心配そうに見るシャルルの心境はいかなるものかと思うが、ここでは女の方が政治的であるのは間違いない。葬儀の客の前で歌をやめ旅の経験をネタに掛け合い漫談を披露すると大受けというオチは複雑だ。
『海賊のフィアンセ』が何も持っていないが男には何もかも持っていると言われる(「あるある」すぎる!)類の女の話なら、『愛の喜びは』(1991)は何もかも持っているが「男」がいないので男には不全だと言われる類の女達の話である。いずれにも女がセックスの価値を自分で決めるということが描かれている。前者でマリーに「あいつの扱いは分かってる」と言われる男が、後者で「どの女でもいいから自分のものにしたい」なんて言う男にあたる。
ドンファンの末裔だという男ド・ビューラドール(ピエール・アルディティ)の登場に何かと思えば「女は夫や恋人のものではなく快楽を与える男のものだ」と始まり、いや快楽を与える男のものでも決してない、そのことに直面した男がくるってしまうという『愛の喜びは』。『海賊のフィアンセ』でも女性が村で一番大きな農場を所有していたが、この映画の女達も広大な不動産を持っているのにド・ビューラドールは誰のものかと聞いてばかり。更には彼女らとセックスするや家を仕切ってやろう、管理してやろうと「下男」に朝食の鐘を自分に合わせて鳴らせ、靴を履けと馬鹿げた命令をし始める。男をこんなにそのまま間抜けに描いて大丈夫だろうかと少し思ってしまったのも私の中のミソジニーゆえだろう。
「もっと金が手に入るぞ」
「その後はどうするの」
「好きに暮らすんだ」
「今そうしてるんだけど…」
(本当に、本当にその通り!)