ソーリー、ベイビー


カンヌ監督週間 in tokioにて観賞、2025年アメリカ、エヴァ・ヴィクター監督作品。

帰宅しての第一声「ズボンが裂けた」の、映画のセリフとしての適切さ。私ならあの言葉を出せるかなと思うけど、あそこはあれしかない。この映画は全てが適切だ。アグネス(エヴァ・ヴィクター)が受けた性被害の内容が、同居の親友リディ(ナオミ・アッキー)への語りで明かされるのも正しい。キスをしてみたけど全然楽しくないからやめた方がいいと思った…手を入れられないように自分からキスしてみた…事後に教授はおびえたような顔をしていたと。リディは「それは『あれ』だ」とアグネスをハグする。

婦人科医は「あれ」のことを(被害者側が口にしないのに)さっさと「レイプ」と言う。「私、この下、全裸なんですけど…」からの「入浴の前に検査を受けなきゃ」「『次は』そうします」「キットがあるから」なんて会話の間抜けさ。大学のスタッフが繰り返す「私達も女性ですから」のだから何?感。作中のジョン・キャロル・リンチなら「昔でもないけど最近でもない」と表現する数年後に陪審員として裁判所に出向くと「誰かが目撃していれば直接証拠」といった話を聞くはめになるのには、被害に遭うと全てがそれと結びついて自分を縛る、人生はそれの連続になるということを思う。

被害者になったことはあるかとの質問に手を上げた陪審員の一人は強盗に遭ったと端的に言う。上げた手を思い直して下ろすも当てられたアグネスは皆の前では…と心持ちを口にし婉曲的に被害を語る。こうした場面から分かるのは、性暴力の被害者は被害を語るのに頭を絞らねばならない、そうした負担もおうということである。大切なのはアグネスの話に嘘はなく全て本当だということで、あの教授室へやって来たかつてのゼミ仲間への「彼は私を嫌いだったと思う、尊重していれば伝わるはず」なんて言ってみれば天才的な話し方だ。

振り返ると、オープニング、暗闇の中の小さな家を車が…車のランプって優しい表情みたいだと思ったものだ…訪れてからの、アグネスとリディの、ブランケットの両側から足を突っ込んでの、男ってどうして自分=ちんこなんだろう?あるいは隣の家のギャビン(ルーカス・ヘッジズ)かっこいいじゃん、やった?(実際全然やっている…から彼も来るわけだ)なんてセックス絡みのきゃっきゃと笑い合う会話が違う意味を帯びてくる。そうして楽しく話せることが大事なんだと。

あの「ブランケットの中」こそがアグネスにとって最も安全で居心地のいい場所だったに違いない。近所のサンドイッチ屋(ジョン・キャロル・リンチ)は過呼吸になった彼女に「君は今、車の中にいて安全だ」と言うが、あの小さな家もその類なのだろう、女性の出てくる映画にはそうしたふうに描かれる家が多々存在する。被害の後には誰かが入ってこようとしているのではという恐怖に襲われるしリディも出て行くが、彼女はそこを自分の場所にしようと自分で努力する。

近くのやはり一軒家に住むギャビンが、請われればやって来てセックスし、バスタブに入ってもいいか、ハグしたい、などと会話の中で許可を取るのや、アグネスの「(勃起していない)小さなちんこの方が好き」というセリフまで実に完璧だった。しかし、教授には子どもがいるから訴えない、更生してほしいと話し、未来の優しさに努めるその姿には、私だってこうする、こうしたいかもしれないけど、何がどうとは思いつかないけど、何ともやりきれない思いが残り、それこそが性被害そのものという感じで少し辛くなった。