これからの私たち All Shall Be Well


オープニング、ダムの脇の道を、山道をスローモーションで歩むアンジー(パトラ・アウ)とパット(マギー・リー)はどこかに着いてしまわないよう願っているようだ。エンディング、その道中の、すなわち人生のどこかの、最高のキスを含む幸せな場面は、この二人は(パットの死後にその家族に言われるような)親友ではなく恋愛して家族になったレズビアンカップルなのだと映画から飛び出さんばかりに訴えている。加えて人は愛する人を失ってもその記憶で生きていかねばならない、生きていける、実際アンジーもそうなった、しかしそこに差別による障害があってはならないと言っている。

一人が茶葉を入れ一人が湯を注ぐ。二人並んで鏡の前に座り、アンジーがつけてやった適量のクリームをパットが自分の顔に叩きこむ。ありがとうの言葉すら逆にない朝の一幕に二人が一心同体だと分かる。しかしパットが死ぬや、香港において同性婚が認められていないことによる遺産問題、具体的には将来のために用意した家の権利が奪われるという非人間的な問題がアンジーを襲う。遺産が家長であるパットの兄(タイ・ポー)の管理下に置かれたことで、連名で借りスタッフも顔見知りの貸金庫が利用できなくなるなど理不尽な困難の数々に見舞われる。

話が進むと、中秋節にパットの家族が二人の家に集まるのは他に適当な広さの家がないからだと分かってくる。失業し夜勤の警備の仕事に就いたばかりのパットの兄とホテルの清掃の最中に長く残ったタバコを取らずにはおれないその妻、恋人の女性に甲斐性無しと言われる息子は三人で狭い団地暮らし。娘(フィッシュ・リウ)の方は夫と子二人でやはり狭い雑居ビルに引っ越すところだ。アンジーと義兄の「会社が保険に入れさせないのは違法だ」「家でぶらぶらしているわけにもいかないから」との会話には、法律を常に意識せざるを得ない彼女と法律を気にするなんて贅沢はできない彼、双方の立場の相違が表れており、適切な法が整備され守られればこんな噛み合わなさは無くなるのにと思わせる。

養われてきたから生活できないと主張すれば生活費は手に入るとのコミュニティの仲間のアドバイスをアンジーが拒否するのは、マイノリティはうまく立ち回るか尊厳かどちらかを選ばねばならないのかという、最近他の映画でも見た問題だ。二人が結婚しており彼女は「主婦」だったと認められればその主張はまた別の意味を持つのに。この映画は法整備の重要性と共に、例えば遺言状を作っておけばという、作中では言っても詮無いが映画を見た人には伝わるメッセージをも備えており、そこが力強いなと思った。