
カンヌ監督週間 in Tokioにて観賞、2025年イラク・アメリカ・カタール、ハサン・ハディ監督作品。
1990年、サダム・フセイン独裁政権下のイラク。作中の、アメリカの爆弾による被害者であふれる病院の医師や看護師は患者のために働いている(そして女性の医者、医療従事者が多い)が、警察は「田舎者のためになんか働けるか」、教師は「国に仕えている」「悪い子どもを通報するのが仕事だ」と言い切る。通報されれば家族もろとも犬のように引き摺り回されるというんだから、あそこは学校とは呼べない何かである。大統領の誕生日に身を切る担当者を決めるくじ引きの箱を教師が回す手元が長々と映される意味が次第に胸に迫ってくる。
主人公ラミアが大きな声で喋るのは、(祖母の耳が遠いのかもしれないが)飛行機の爆音や「大統領に魂を捧げる」との人々の宣誓の声の中で自分を発信しているように思われた。湿地で舟を漕いで待ち合わせ「大統領はケーキを全部食べるのかな」「しーっ、声が大きいよ」で晩のおしゃべりを始める彼女と同級生のサイードの家は共に貧しいがそのありようは異なり、一人舟で通学するラミアに対し彼は「片脚おやじ」の送り迎え、彼らが物乞いと盗みで何とか食べているのに対し彼女の祖母は自分の病気も考慮し町の夫婦のもとへ孫を養子として届ける。「書類がなくても構わない、ただ見下さず、こき使わず育ててほしい」との望みが切実だ。
値段も高騰している卵が一人一個どころか家族に一個の割り当てとなった世の中では大人達に余裕などなく、子どもに目が行かないから逃げ出したラミアのことも誰も見ていない。都会の川べりで彼女の心をなだめ高揚もさせたサイードの「ぼくたち仲間だろ」だっていつ壊れるか分からない。町中の店で歌い手の女性が彼女を呼んで一緒に踊らせるのを見る彼の表情があまりに複雑で当惑させられたが、あれはこんな世で大人になれば心の繋がりが失われるという予感なのかもしれないと考えた。「瞬きしないで」で映画が終わるのを技に流れたとは感じない。