ペンギン・レッスン


高い門に強面の警備員、壁の外までは届く「ファシストに負けない」との声を締め出し自らを社会から隔離している学校が開かれていく話である(ただし1976年のアルゼンチンにおける名門寄宿学校という舞台の特殊性は私には分からない)。まず壊されるのは、英語教員である主人公トム(スティーヴ・クーガン)と「下請けの使用人」として校長(ジョナサン・プライス)が線を引くマリアと孫ソフィアとの間の壁である。学校で働く者の間に壁があっては教員と生徒、学校と社会と間の壁はなくならないから。終業式に出席するマリアのカットがよかった。

トムが案内された彼のための部屋には料理をするマリアがおり、物理教師のタピオは勝手に入ってきてバルコニーで「ここでパーティができるな」「ウォッカは?」、校長だって振り返ると仲良くしようと頑張って話している。「口を閉じてうまくやってきた」と言うトム自身もかつては理想主義者で口論を愛していた。ここでは誰もが誰かに本心をぶつけて交わりたいと願っている。しかしできないのは国にいつ銃を向けられるか分からないからだ(ということを、実際に銃を向けられたり拷問のために連れ去られたりといった場面が明確にしている)。

トムは初回の授業で「皮肉を使って英語で文を書いてみよう、私はこの新聞から探す」と女王の写真を留めた鋲を一ついたずらに置いてあった椅子に腰かける。後に校長が言うようにやる気がなく見えるも面白い授業ができる先生だと何となく分かる。拷問ごっこの形を取るいじめへの対処に時制を使った文を言わせるのは、内容はともかく「教員あるある」だ。ペンギンのフアン・サルバトールは最初こそ餌やりを餌に授業のめあてを達成させるために連れてこられるが、トムとの友人ペアとして生徒を導くようになっていく。生徒には、すなわち人には可能性がありきっかけが大事なんだということがここでも訴えられている。

浜辺で重油まみれのペンギンを前にしたトムの「自然には介入しない」に目の前の女性いわく「これは自然じゃない」。彼は人間代表として責任を取ったわけで、その介入によって友人=サルバトールができ人生が変わっていく。ソフィアを逮捕した国軍の男がトムに向かって「ペンギンと悲しい話でもっておれに正しいことをしろと言うのか」と言うように、一緒にいると正しいことができるのが友人である。さすればサルバトールが国境などの境界をするする通れたのが何だか一番大きな比喩のようにも思われる。