
イスラエルの攻撃下にあるガザに暮らす24歳のフォトジャーナリスト、ファトマ・ハッスーナとのビデオ通話を世界に送るドキュメンタリー。
当初「パレスチナ人としてここにいるのを誇らしく思う」と話していたのが「本当の牢獄」の中で破壊されてゆき、それでも「ここしか居場所はない」と語る一人の女性ジャーナリストを私達は助けられず殺させてしまう。映画の殆どは通話中のスマホを見る視点の映像で、粗く何度も止まるそれはイスラエルに圧されたファトマと私達との繋がりそのものだ(ファトマいわく、「コロナ禍」の時は自室のパソコンで何でもできて幸せだった)。挿入されるニュース映像の、既に知っていようともの衝撃(Yes!じゃないよ)、終盤に流れる、いつか会いたい、できればここで、との声の付いた破壊し尽くされたガザの街をゆく映像の鮮やかさにも殴打される。監督が正しいところに入れてくれる。
フランスに亡命したイラン人であるセピデ・ファルシ監督が「戦争に人生を左右されてきた、彼女は私みたいだ」と冒頭話すので、通話中のスマホの中でぼんやり重なる二人の輪郭は私はファトマ、ファトマは私、というふうに見える。実際そうでもあるが、やがてスマホやパソコンの画面に常にうっすら映る監督の顔やそれらを操作する体の一部や室内の様子は私達のそれだと分かってくる。フランスからカナダ、イタリアへ移動し、窓を閉めたり訪れた猫を入れたりでスマホから離れるだなんてまさにファトマが奪われた「普通」でしかない。ファトマの「自分はnormalじゃない」への監督の「あなたはnormalだ、世界がnormalじゃないんだ」には、世界に属しているくせにそう言うしかない私達が表れている。
10月7日のことをどう思う?と問われたファトマはアラビア語で話せたらなと言う。時に隣の友人に忘れた単語を聞きながらも二人は英語のみでやりとりを続ける。世界に発信するのが目的だから、ファトマは「二人だけの時なら見せてもいいけど」と通話時には髪を常にきちんと隠す(敬虔なムスリムであるファトマは、コーランに物事は全て終わるとあるから私は待つのだと言う)。ただし自身で詠んだ詩と二年前に歌ったという歌は母語である、それはパレスチナのものだから。depressionとの言い間違いを監督がdepressionとそのまま受け取って話し続けるのが心に残った。