
冒頭のろう学校の授業での聴者の先生(小野花梨)の音声言語での「怒っちゃうぞー」「犯人だーれだ」はあり得なすぎる(その内容は勿論、どんな生徒の前でも極力背中は向けないものなのに)。子どもの不和は教員の、ひいては大人のせいだと言っている場面だ。この映画では日本語対応手話を「教える」この先生が最も自らを省みない、私が自分と置き換えて考えなきゃならない存在で、後のしゅんへの「そんなんじゃ先生に伝わらないよ」なんて教員が一番言ってはいけない言葉だが、それへの反抗が自分(たち)の言葉を作ることというのが最高だ。映画の終わりにろう者の古賀(毛塚和義)が風と共にやってきて去る夫婦…を経ての女の子、老人、そしてクルド人達とのやりとりでの、わかってみせる、わからせてみせる、もそうだろう。
古賀の身内への「聴者なんてちょろいもんだ」とはどういうものかと見始めると、電気店にやって来た女の子には日本手話で「お前は聴者か?」、大人にはメッセージを記した紙を急いで取り出して見せるという、その複雑さにこれはと引き込まれる。程なく起きるトラブルの場では、見えて聞こえて日本において日本語を解する町おこし担当職員の沖田(板橋駿谷)が古賀とクルド人のルファト(ムラト・チチェク)の間に入って丸く収めようと、すなわち双方が喋るのをやめさせようとする。古賀が何かというと口にするお菓子には封じられるお喋りの代替の意味もあるように思われた。
諍いを収めようとするのは古賀の娘でCODAのなつみ(長澤樹)も同じだが、番組の撮影では「辛いことはありません、これがうちの普通ですから」と話す彼女も出演祝いのケーキを横から手づかみしてむさぼるくらい、実際には「おしゃべり」できていない。彼女とヒワ(ユードゥルム・フラット)が初めて会する場面では「通訳」が一人から二人になることでそのいわば癖が判明し何でも「独占」はよくないなと思うが、なつみが内容を変えて伝えるその心は「死ねと言ったらそのまま相手に伝えるのか」であると後に分かる。彼女が一人こぼしていた指の音は共有され二人の言葉になり笑いを生む。でたらめ言葉で自分達を解放した晩、カラオケ店のソファに離れてうつ伏せで多分目を閉じての「寝た?」「寝た」に、あれで通じてしまう方こそ特殊なんだと思う。何の変哲もない見慣れた光景をそれまでの積み重ねで今までと違うふうに見せてくれる映画は面白い、いい映画だ。
沖田の「あなたがたのカテゴリは『障害者』ですから」なんてセリフもコメディであるこの映画においては笑えてしまう。この認識は『ブルーボーイ事件』(2025年日本)の「『精神疾患』扱い」に通じるものがあるけれど、当事者間でも異なる見解があるかもしれないと思うもどのようにあるものか、非当事者の私には分からない。なつみの「この三年間は夢の中にいるようだ」とのセリフも意味が掴めないゆえに強烈だった。見終わっては、自分の仕事にも関係することとして、マイノリティ属性が重なった場合のことを…外国人が日本に来てくれる、来ざるを得ない時、聴者以外に果たしてどのくらい道が開かれているかを考えた。