
「部屋を丸く掃くやつなんですよ、女としてレベルが低いんです」と吐き出す依頼者(白ベルトにセカンドバッグの中島歩)が帰った後のサチ(岸井ゆきの)と弁護士の同僚の「どうして結婚するんですかね、離婚するのに」的なやりとりに、なぜ誰もが平等にできるわけではない結婚、それも同姓同士だから改姓の問題にも触れずに済むケースを描くんだろうと見ていたら、これは相手の気持ちを考えながら一緒に生きるのは大変だという話なのだった。やってみたならば、ラストシーンでサチが口ずさむ歌にタモツ(宮沢氷魚)の声がふと参加してくるように、無にはならない…と言っているように私には思われた。しかしそれならば、相手の気持ちなど知りたくない、眼鏡がないから手紙も読めないと言う依頼者(ベンガル)のあの後はどうなるのだろうか。
『佐藤さんと佐藤さん』との設定、タイトルには、人は頑張らない限り他者の立場に立って考えることなどできないという意味がこめられている。改姓させる、改姓させられる、どちらもせずして結婚できてしまった二人には(実際にはしているのかもしれないが、表面的には)、サチが前の会社での後輩(藤原さくら)に「佐藤さんは佐藤さんのままだから」と言われてしまうように、そのアドバンテージゆえ、せねばならなかった人の気持ちが分からない。タモツには実家で老いた父と農業を営む弟の気持ち、ましてやその妻の気持ちは掴めない。橋で離婚話が出る場面でふと思ったことに、この映画は全員が社会的立場そのもののようなキャラクターなのに、演出や演技のためなのか皆生きている感がありぐっとくる。
とりわけ始めのうち、司法試験に合格することは社会との繋がりの保証の比喩のように感じられる。二人のうち片方にだけそれがあるのは互いに辛い。合格発表の日、用意しておいたケーキのプレートを口に放り込んだサチがタモツに後ろから抱きつくのも、仲間の結婚式に一人で出た晩の喧嘩の後にベッドから出ようとする彼に縋りつくのも、そういうものの必要ない二人の世界に戻ろうという試みに思われた(実際それは存在するのだから)。切ないのはその保証のないタモツの方が「正しい」ことを考え主張しているという点で、保育園でのサチの「みな忙しいんだから」は陳腐で凡庸なセリフだが振り返ると自分だってそういうふうに流されてるんじゃと反省させられる。それをちょっとでも正していくことが、皆が生きやすい社会への道なんだと思う。