
東京国際映画祭にて観賞。2025年イギリス・アメリカ、ケリー・ライカート脚本監督作品。
冒頭の一幕で美術館を去る際パパと呼ばれるムーニー(ジョシュ・オコナー)だが、自身の家では裏口から出入りし打ち合わせは地下室、食卓では判事である父親(ビル・キャンプ)の「不肖な」息子でしかない。「あいつは建設会社を経営しているのにお前ときたら」に金や人の取り決めなんてつまらないと返した次の場面で首謀者(マスターマインド)として金の算段や人の割り振りの話をしているのが面白い。とはいえこの類の泥棒仕事では首謀者とて実働せねばならず、先の言葉は自分に言い聞かせているのかと考えた。仲間に帰られてしまい「顔の割れている」自分が運転するはめになるのには、学校で授業の穴を埋める責任が管理職にあることが頭をよぎった。結局は彼の人を見る目のなさが満杯になったコップへの最後の一注ぎとなり、水はこぼれてしまうのだった。
警察がやって来た日、怒り心頭の妻テリー(アラナ・ハイム)のブラウスを手に「これは洗ってあるか?」と臭いを嗅ぐなどして荷造りしてやるムーニーの姿は軽薄にも悲しくも見える。当てにしていた旧友二人の所帯でも、新聞を手に座っている、中学の臨時教師をしているフレッド(ジョン・マガロ)は優しいがムーニーに卵とベーコンを注文されるモード(ギャビー・ホフマン)には…ここでもやはり女には…拒否される。フレッドの「弟がやってるカナダの牧場へ行けばいい、お前の言うように徴兵逃れのほかフェミニストもいる、気のいい奴らだ、仲間ができる」にコミューンは性に合わないからと返すのに、ムーニーは泥棒だから一人なんじゃなく一人だから泥棒だったんだと分かる。
舞台は1970年代のアメリカ、マサチューセッツ州の秋。冒頭ラジオから流れる反戦運動についての、明らかに「今」を意識した、「物を言う者は逮捕され言わない者が受け入れられる」「冷笑や無関心が広がっている」が最後まで通底している。デモ中の女性達を揶揄う場面からも、ここでの泥棒行為は反体制などではないと分かる。家へ来た警察が言う「皆の望みは絵が無事に返ってくることだ」に皆とは誰だ、絵が返るとはどういうことなんだと思う(ここに美術品泥棒をテーマにする訳があると思う)。警察の象徴である帽子が見向きもされず転がったままの、よく知っているような結末には、これをどこにも属せない人の悲哀の話と見るか他者を利用してしっぺ返しを受ける話と見るか、私には前者は成り立たず後者におちるしかない話に見えた。母親ともども利用されても泥棒と知っても父親に好意を抱き続ける長男トミーの姿が心に残る。