
電柱の住所から「成城」かと思える、背後を横切るのが引っ越しのトラックだと分かる、そういう時に母語の、自分の領域の映画を見る有利さを感じる。映画とはそういうものだがこの映画はとりわけそれを感じさせる。さて成城で分かれる際に恵美(木竜麻生)がマキ(菊池亜希子)に名残惜しそうにする、あれは彼女が、子どもの時に出来ないのは勿論結婚(すると言っている)相手にもしなかった「選択」であると後に分かる。この二人の場面はトイレの場面含めて全てよかった。鍵を開ける時に影によって母の由美子(井川遥)もいるかのように見える、あそこが作中一番好きだ。
(ちなみにトイレの長蛇の列が「女性トイレ問題」を思い出させるが訴えてはいない、一事が万事そういう映画だ)
この映画の、「男」と「女」の間にはっきりなされている線引きが特に何も生んでいないところが私の好みではなかった。オープニングの夫婦のやりとりに始まり台湾人スタッフ(蘇鈺淳)の「社長の趣味かと思いました」、恵美の「相手との関係を保ちながら子ども達ともうまくやっていければいいな的な?」、端的に言ってそうだが初(遠藤憲一)も蓮(黒崎煌代)も自分の内面を言語化しない。この映画ではそれは考えないということと同義のようだ。考えないとは考えずに済んでいるということで、その根にある女性差別から生じる家族の問題と蘇鈺淳がみんながかわいそうだと言う再開発の問題を重ねて描くのはおかしいと思う。
(だから漣から初へのメッセージは一体何だったのだろうと思うが、そこは設定されていないような気がする)
最後のmemory of my mother and the cityで全てひっくり返る。黒崎煌代が何とも吸引力のある主人公は、少年の姿での登場時から父親の言うことを聞かないのがその通りにしないということなのか耳に入っていないのか分からず、本人の非言語化と関係なく私には内面が一切見えなかったけども、そうか、何もかもが作られるというよりただ映されていたのかと腑には落ちた。
終盤の由美子の「あなたの仕事しているところが好きだった」とは、映画『国宝』で喜久雄が娘に言われるのと同じように白けさせる。それとも「本物」の言葉じゃないから(あるいは別の意味で「本物」の言葉だから)全然違うということなんだろうか。序盤の1965年…から彼の代表作である、までのピースで私は初は日本の主流の比喩なのかなとも思ったが、もしそう取るならこれは日本の人々は主流に対して優しいという話になるなと考えた。