サッパルー!街を騒がす幽霊が元カノだった件


村でたった一人のサッパルー(葬儀屋)のザック(アチャリヤー・シータ)が言うことには、「葬儀屋が守るべきは死者は全て平等だということ」「死者は先生、生者は生徒」そして「死者と生者は分けられねばならない」。それに則り、病で動けなくなった彼の代わりに卒業を控え帰省中の法学生の息子ジュート(ナルポン・ヤイイム)と地元で特に何もしていないシアン(チャーチャイ・チンナシリ)の二人が村の葬儀を執り行う。「顧問」に電話で聞きながら、検索しながら、呼び出した親友らと言い合いながら、「極悪人」「ペットの犬」「トランスジェンダー」「キリスト教徒の西洋人」「24時間以内に火葬しなければならないイスラム教徒」などを弔う。若者が伝統を繋ぎ変化に対応する様子がコメディ調で描かれるのが面白い。

二人の身近にも死がある。これは愛する人が死に自分が生きているという現実をどう受け入れるかという話である。ジュートの父ザックは癌を患っているし、シアンの元恋人のバイカーオ(スティダー・ブアティック)は自死している。彼女を火葬する場所を決めるのに皆が卵を投げるとシアンのが割れる。「力いっぱい投げたからじゃね?」と言われるが、自分へのメッセージだと思い込んだ彼は会って話すために幽体離脱しようとザックに教えを請う。妊娠でお腹の大きくなっていた彼女が首をくくった理由を、彼は「おれも進学していれば、別れなければ、あんなやつとつきあうことも死ぬこともなかった」と言うが、映画が明かすのはバイカーオの方が別れを決めて伝えたということのみ。男子の話である本作ではそれ以上踏み込まないのが誠実なのかもしれない。

「死者は平等」を表すために参列者がほぼいない「極悪人」の葬儀の描写がなされるが、出家を控え参列者に髪を切ってもらう得度式は人が集まらなかったら難しそうだとふと思う。これは広義にはコミュニティの話でもあるが、地方と都会では大きな違いがあるのだろうか。村では皆が大きな家族のように暮らしているが、ラストに至り、シアンと同居し「おばあちゃん」の世話や家事を担っている女性が姉ではなく恋人と判明して驚いた(オープニングタイトルに「スピンオフ」と表示があったので本国の観客には周知のことなのかもしれない)。日がな幽体離脱がどうとか言ってないでニワトリに餌でもやってよとの彼女のセリフに中盤うなずいていると、彼が洗い物に取り掛かるのに映画はほぼ終わる。生きるとはそういうことか。