メイヴィス・ステイプルズ ゴスペル・ソウルの女王


Peter Barakan's Music Film Festival 2025にて観賞、2015年アメリカ、ジェシカ・エドワーズ監督作品。前日にアンコール上映で『七転八起の歌手 バーバラ・デイン』(2023年、感想)を見たばかりなので、ジャンル融合のショーに出演したボブ・ディラン、バーバラ・デイン、ザ・ステイプル・シンガーズの三者がカメラの前を横切って登場する映像がより面白く味わえた。

バーバラ・デインのドキュメンタリーでは終わりごろ登場し高齢になった自分達の声について話してくれるボニー・レイットがこちらでは早々に登場。それを皮切りに音楽関係者達(殆ど「ステイプルズ家の友人」)にメイヴィス、ゴスペル、その中でのザ・ステイプル・シンガーズの位置について教えてもらった後には、冒頭のメイヴィスの「殆どツアーに出ている」「伝えたいことがなくなったらやめるけど、まだやめない」といった言葉やツアーマネージャーの若い男性と仲良くやっているようだった様子まで捉え方が変わってくる。ゴスぺルの知識が皆無の私にはこの作りがありがたかった。

(「誰も踊り出さない、失神しないようではゴスペルグループとして失格」「客席を煽るメインの歌い手が通常は複数おり交代制だがメイヴィスは一人で担っていた」「ザ・ステイプル・シンガーズは50年代にデビューしたが20年代の感じがあり北部の人々にルーツを感じさせた」「同時に都会的な味があった」等々)

繰り返されるメイヴィスの「パパが生きていたら」も映画が進むごとに重みを増す。「私はもう白髪だが変化をやめたくない」と言う父ポップスのやり方で、「世俗的な歌を歌うのは禁忌」のゴスペルグループとしてスタートしたザ・ステイプル・シンガーズはディランのカバーを始め様々なジャンルの音楽を取り入れていく(カーティス・メイフィールドのレーベルに移籍した際の、あまりに世俗的な歌詞についてのやりとりには笑ってしまった)。より分かりやすく、よりメッセージ性を強く、やがてザ・バンドにプリンスと私が僅かながら知っている音楽が出てきて歴史が立体的に見えてくる…というか、ステイプルズの側から数十年を見ることで、いい音楽をやりたいと思うミュージシャンが互いに求め合うのがいわゆる音楽シーンなんだと思わされた。

オープニングの移動中の車窓からの眺めが、何てことのない映像ながらメイヴィスになって体験しているようで印象的だった理由が終盤何となく分かってくる。これは何十年もずっと、歌うために道を移動してきたという話なんだから。それは時代につれて変化し、かつて南部で追い出されるなどの差別を受けた際に父ポップスが反撃してくれた理由を彼女は「それらは昔パパがシカゴで体験したことだから」と話す。『風に吹かれて』における「道」は父には本当に切実だった。理由にならない理由は、やはり理由になってはならない。