最後のピクニック


本作主演のナ・ムニも出ている『ディア・マイ・フレンズ』(2016)に『まぶしくて』(2019)、直近なら『天国より美しい(邦題「君は天国でも美しい」)』(2025)とドラマなら高齢女性が主人公の韓国作品を幾つも見てきたけれど(しかしどれもキム・ヘジャがメインキャスト、ということは大勢いるようで主役を張れる「とみなされる」女性の役者は少ないのだろうか)映画は確かにそうなかったかもしれない。冒頭ウンシム(ナ・ムニ)が亡き母と会話をする場面にふと、『ブリジット・ジョーンズの日記 サイテー最高な私の今』(2025年イギリス)と同じじゃないか、あれがぐっときたいうことは私も死に近付いていっているんだなと思った(ちなみに息子を父親と間違えるのは某ドラマと同じ、「ネタバレ」だから作品名は書かないけど)。

「あんたが来るまで私は死んでた」とは、ウンシムの、いや彼女とグムスン(キム・ヨンオク)の人生は、離れ離れになってから今まで辛くままならないばかりだったということだ。グムスンの「尊厳とは本当に深い言葉だ、それは思い通りになるという意味だ」から、その後の二人の行為は持ち得なかった尊厳を手にするためのものだと分かる(詩を書き始めた理由を問われたグムスンが返すテレビ番組の話は、韓国には高齢になってから自分を取り戻そうとしている女性が多くいることを表している)。またウンシムが息子には「50歳からでもまだやれる」ともう何もせず、彼に「おれが終わったらお前達も終わりだ」と言われる、グムスンの子である妻の方に…彼女を通じてグムスンと「すね」が似ている孫の方に…家を売ったお金を残すのは、下の世代には尊厳を回復する可能性があると信じているからである。子ども達と同世代の私にはこれが身に染みた。

「グムスンにキスしているのを見られて精神病院に入れられそうになった」との同級生のセリフから、「夜逃げ」する前のウンシムの辛さには女性を好きであることへの抑圧も含まれていると推測される。一方グムスンは諸々の言動からしてウンシムと彼女に惚れているテホ(パク・グニョン)に一緒になってほしいと昔も今も思っているようだ。二人の間になぜ男性を置いたのだろうと見ていたんだけど、終わりに至り、キスを目の当たりにした彼は旧弊な町で二人の魂を守って来た存在でもあったと分かる。最後のピクニックの場は、あるいは故郷は、初恋が閉じ込められた場所でもあった。ただ私にはこの映画の、そうした辛苦と老齢になって体の自由が利かなくなることを重ねるようなやり方はあまりいいと思えなかった。

歳を取るとキムチを忘れるなんてことがあるんだと思うピクニックでの二人並んでの食事に、冒頭自分の家を出たウンシムが「ソウルの女は違うね!」と言われながらも操作ミスで幾つも買ってしまったハンバーガーをグムスンと植え込みの縁に座って悪態を付き付き食べていた場面が蘇り、あの時まで彼女は真の意味での食事をしていなかったのだと気付いた。訪ねた施設(あの入居者達は実際の入居者に見えた)で旧友がただ詰め込むケーキや病室でグムスンが一人摂る食事はごはんじゃない。全くもって韓国らしい作品である。