
「インディペンデント・ガールズの肖像」にて観賞、1985年イギリス・アメリカ、ジョイス・チョプラ監督作品。ジョイス・キャロル・オーツがボブ・ディランのIt's All Over Now, Baby Blueに触発されて書いたという『どこへ行くの、どこへ行ってたの?』を原作として、作中では音楽監督のジェームス・テイラーの曲が幾度も流れる。
女友達の父親が車で迎えに来るまで15分と聞いたコニー(ローラ・ダーン)の「むだな時間」…私もそう分類していた時があると思い出した。人生には「男の子のいる時間」=家族といない時間と「男の子のいない時間」=家族といる時間、いわばおつとめの時間とがあり(それは家族と住んでいるか否かに関係ない)、すなわちいずれにしても基準は男の子であり、そのどちらでもない時間は無駄なのだと。そう思っていた頃の私はもう数歳…若い頃の数歳は大きいけれど…年上で都会にいたのでコニーのように「足がない」という大問題は抱えていなかったけれど。
コニーが車の中で男の子に肩を揉まれたり髪をかき上げられたりする場面には映画であまり見ないリアルさがあり感じ入った。しかし寓話的な小説から膨らまされた幾らかの部分につき自分の思うリアルと違うという違和感も覚えてしまった。まず映画ではコニーが自分のことを知られていたり家族に危害が及んだりするのを恐れてアーノルドの暴力に屈したとも見えるけれど、そうじゃない、そうじゃなくても若い頃には何故だか言うことをきかされてしまうことがある、それは大ごとだと思った。
男の子の優しさを口にするコニーに姉のジューンが言う「全てを手に入れるつもりなの?」は、彼女が妹と真逆のようにしているのは妊娠などの恐怖から逃れ安泰な幸せを手に入れるためだと理屈をつけているようだが、当然ながら女性はそうしたところで恐怖からは逃れられない。また映画では冒頭のショッピングモールでの描写から(原作は稀代のモール小説と言える)コニー達が求めているのは馬鹿にしつつも結局は同年代の男の子であり、年上の男達を「キモい」と思い同時に恐れていることが分かるが(「あの男の子たち20歳くらいじゃない?」と言うジルはグループから抜ける)暴力を振るってくる男は年上に限らない…などと暴力が描かれている映画には難癖をつけるはめになってしまうものだ、肉付けされればされるほど。
映画の終わりにコニーはバーベキューから帰って来た家族の待つ、空っぽではない家に迎えられる。父親にどこへ行っていたんだ?一緒ならよかったと言われ、母親に朝は叩いてごめん、ずっとあなたのことを思っていたとハグされ、姉と手を繋いで踊る。「私が汚れてしまっても…」とのセリフに映画の作り手が込めた意図は数十年経った今では多分、正しく読み取れない。家族の温かさや人生がこれからも普通に続いていくことが付け足された結果、こういう女の子がどこにもいるんだという別の類の嫌さ、言ってみれば現実そのものを突き付けられて見終わった。