
色々なことが次々と流れていくなか入り込める瞬間は皆無だったけれど、田中泯を見るだけで映画料金の元は取れた。彼演じる万菊の俊介(横浜流星)への「若い娘になりきってたら…」には、歌舞伎ってやっぱり薄気味悪いなと私に思わせない説得力がある(対して半二郎を演じる渡辺謙の喜久雄(吉沢亮)への「恋する娘の気持ちになってないから…」には急に何なんだ気味が悪いなと思ってしまう)。老いた万菊の元へ喜久雄を送る、肝となるセリフを口にする役どころの竹野(三浦貴大)の「国宝なんてものは芸だけ残して…」にそういう話かと見ていれば、終わってみればこれは、死を待つ万菊の口から出たのが「ここにはきれいなものがなくてほっとする」だったのに対し、万菊のようにきれいであれとの圧を受けることのなかった喜久雄は最後に自身で「きれい」を感じることができたという話であり、同じ「国宝」であっても、あるいは芸人もそれぞれだという話のように思われた。
女性達の描写は大変な手抜きに思われた。藤駒(見上愛)はなぜ喜久雄にあんなことを言ったのか、春江(高畑充希)はなぜ席を立ち俊介を追ったのか、理屈は付けられるが男性達の言動が全て線で繋がっているのに比べたら点でしかなく唐突だ。幸子(寺島しのぶ)が「血」にこだわるのはそれが女が子を産むことでしか作り出せない、裏を返せば女にはそれしかできない、そうすることによってしか家業に関われないからだと思ったけれど、藤駒の娘で喜久雄の「隠し子」の綾乃(瀧内公美)が映画の終わりに口にする言葉には、そもそも世に「育児をしなかった父親である自分を認めてくれる娘」が出てくる映画が腐るほどあり女性に呆れられていることが分からないのかと思ってしまった。同時に子を産まないことがやはり女にとってこの社会への最高の抵抗かもしれないとも。ちなみに子を孕ませるためではないセックスとそのためのセックスが描かれるがどちらにも見世物感は無く、クレジットでインティマシーコーディネーターの西山氏の名を確認して例によって安心した。また半二郎は「女」としかセックスしなかったわけではないかもしれないと考えた。
終盤のインタビューでの喜久雄の開口一番、というかお約束のように口から出てくる「皆様のおかげです」は心がこもっているようには聞こえないが、彼がその後の舞台で見る「きれい」は芸にはそれあってこその「客」の存在から発せられるもののように見えた。当初は無害というか舞台上と対等な空気が漂っていた客席に、喜久雄と俊介が芸に生きるようになるにつれ次第に他人ごと感が満ちてゆき、メディアの酷さも加わるが、最後には「真実」なのか否かは分からないが全員が一丸となって二人を肯定してくれる。それは映画冒頭で父親の権五郎(永瀬正敏)に「見とけ」と見せられた雪の中の壮絶な光景を背負った喜久雄の存在が芸を通じて大衆に受け入れられた瞬間に私には思われた(だから綾乃のあのセリフは果てしなく矛盾しているのだ)。