
「サタジット・レイ レトロスペクティブ2025」にてデジタルリマスター版を観賞、1963年作品。
アロティ(マドビ・ムカージー)の義父の「知性の種を蒔いたのは教師である自分なのに彼らは出世し私には職もない」との嘆きには、1920年代が舞台の『音楽サロン』(1958)の地主に対してと同じく、妻のように選択肢がゼロなわけじゃなかったんだろうと、そしてこの男にこそ時代が表れていると思う。変化の中で、自分は変わらない、変われないとの信念から周囲や自身を歪めてしまう。息子を悪者にして自身の立場を正当化し、「自助論を唱えていたのに」当の教え子達に無心して回る。最後にはあることを機に変化の象徴であるアロティに「罰を与えてくれ」と言うこの義父やその息子である夫の言動には、今の目で見るとこんな男性がこんなふうに自らを省みることなどないだろうと思わせられるが、こういう類の映画と受け取るべきか。
夫がこんな諺があると英語で言う、女性がいるべきとされる家の中が前半の舞台の殆どを占める。働き手の変化により家の中がどう変わるかが描かれる。アロティの初出勤を控え「結婚式以来」初めて夫婦で並んでの朝食の後、就職の話に当初つんけんしていたが義父と違い順応の早い義母は二人が落としたご飯粒を手で拾い集めて掃除する。やがてアロティは夫の好物である魚料理を「体力をつけなきゃ」と義母に勧められ一人で食べ、メイドに払うお金が足りないとなれば「私の鞄から出して」と奥の夫に声を掛けるようになる。息子が寝込んだ時も義父が倒れて運び込まれた時も留守にしている(他にあれだけ大人がいるんだからいいだろう)。夫は「仕事から帰ったら家で迎えてくれ」「稼ぎ手を敬ってくれ」などと言っていたが彼女はそんなことは口にせず恐らく思いもしない。やがて家の風通しがよくなり舞台の大部分は外へと移っていく。
アロティは仕事仲間とお喋りをし、最も「個人的」なことを行う、あるいは分かち合うトイレの中で、英国人のエディスに初めての口紅を塗ってもらう。このあたりは近年の描写ならドラマ『貞淑なお仕事』(2024年韓国、舞台は1990年代で元は英ドラマ『ブリーフ・エンカウンター』)も思い出すが、大きな違いはこちらは経営者がベンガル人の男性だということだ。「聡明で魅力的な若い女性」を集めた彼は「支配者の置き土産」たる英国人女性のエディスの積極性を疎んじ病欠を理由にクビにする。抗議するアロティへの、彼女の味方をして何の得になるのか、君のような優秀なベンガル人女性がいればいいじゃないかとの男の理屈は『ナミビアの砂漠』(2024年日本)で描かれていることに通じる。アロティの友人の夫も妻を悪く言っていたが、女性は自分自身と女性というものを同じくくりで考えていると(今なお!)男性は分かっていない。エディスへの謝罪を拒否した経営者を非難しコルカタの街へ出て行くアロティに夫が同行するのは私には唐突に思われたが、初めて知った妻の「愛」に心動かされた、敢えて男性の(描かれることの少なかったであろう)そういう面を描いたとでも取っておこうか。