アイム・スティル・ヒア


映画はレブロンの海に一人漂うエウニセ(フェルナンダ・トーレス)が上空の軍のヘリコプターの音に緊張したあと浜辺の子ども達の声にそれを緩めるのに始まるが(全編通じてフェルナンダ・トーレスのこうした表情の変化が雄弁で見事)、後に彼女達、いや人々は「皆同じ」に監視され狙われていたと分かる。海辺の邸宅での一家の暮らしは未来は輝かしいものであるという空気に支えられている。末っ子バビウの乳歯が抜けてパーティに集まった皆がわーっと喜ぶのにもそれが表れている。砂浜に埋めたその歯の所在を知る唯一の者…エウニセの夫ルーベンスが姿を消してしばらく時は止まってしまうが、それがバビウ自身の元に戻ってきてからまた進み始める。後に彼女はあの日、空っぽになった家を見て父親が死んだことを確信したと話す。

エウニセの五人の子は始め誰が誰だか分からないが次第に区別がつくようになってくる。映画を見ていればよくあることだがここでは意味が異なる。自由な時には趣味こそ違えど一丸となって将来へ進んでいたのが抑圧の元では役割が固定されてしまうからなのだ。「ひと足先に偵察に」と父親に冗談めかして言われていた長女ヴェロカはロンドンで何も知らされず、一番下の二人、バビウと原作となった同タイトルの小説の著者マルセロは残酷な事実を伏せられ、二女エリアナはそのための母親のいわば共犯者となり、また大人と見做され共に拘禁される。三女ナルはなすすべもなく父親のシャツを着て恋しがる。エウニセには感傷に浸る余地などなく残された車を運転して家を回していく。その努力により、予告にも使われていた写真撮影で雑誌の編集者やカメラマンに反対しての「笑い」が一家のうちに育つ。

ナルは父親恋しさにその煙草を口にし、ゼゼはメイドの職を失った自身を慰め納得させるために恐らく吸う。残酷な犯罪に憤り胸痛めつつも未払いの給料を求め一人の時にはいまや家から消えた音楽を流している彼女の描写が効いている、それが彼女の「生」なのだ。そしてエウニセは、夫が連行された証明のために尽力してくれる友人の弁護士に「ギリシャ語より難しいぞ」と(揶揄ではなく)言われた書類を煙草を吸いながら読み始め、後に大学で学び先住民族の権利を守る弁護士となる。1996年と2014年の章には、「強制失踪は最も酷い犯罪です」(「しかし現政府には他に優先すべきことがあるのでは?」)「いえ、まず遺族に謝罪すべきです」と訴えた彼女の記憶が失われようとしていることが描かれており、小説や映画はそれを留め人々に思い出させるためのものだと分かる。「何もせずにはいられなかったから」と仲間が語ったルーベンスの行動の理由もエウニセへ、映画の観客へと伝わるものだ。