よみがえる声


『オマージュ』(2021年韓国)を一瞬思い出す、映像機器を前にした二世代の女の横並びのショットでの「木鉢寮って何ですか」(朴麻衣監督)「だから…!」(朴壽南監督)のやりとりに、当たり前だと言われそうだけど、母と娘は違う人間なんだと思う。みな違う道を歩んでいるのだから人の声を聞かなきゃならないんだと。麻衣の「撮ってるんだよ、(撮影している)私に向かって話さないで」にも壽南の一人称は「お母さん」のまま、そのうち「オンマ」に変わり最後まで維持される。この場面の「私たち相性悪いね」(壽南)「相性のいい相手なんているの?」(麻衣)の幕切れには少し笑ってしまった。時間を置いた病室での映像に「一万円振り込みがあったよ、三作品ほしいって」(麻衣)「どこで知ったんだろう、宣伝してないもんね」(壽南)「韓国語の字幕をつけた方がいいね」(麻衣)なんていわば映画作家の日常話が収められているのも面白い。

壽南監督がペンをカメラに持ち替えた理由は、被曝した在日朝鮮人の人々がもはや朝鮮語も日本語もおぼつかない状態だったからだという。映像なら沈黙と体の震えを記録することができると。広島の女性二人が向かい合って二つの言葉をごちゃまぜに使って話しながら(この二人のみ、原爆を日本語で言っていた)一人の化粧品を顔や頭に塗ってみる様が何とも胸に迫って、永遠にここから逃れられないような気がした。一方でいわば逆、作中でも言われるように認知症の人は昔のことは覚えているそうだけど、カメラを前にすると娘にチマチョゴリを持ってこさせ力強く証言をする堤岩里虐殺事件の生存者の女性もいる。夫が連れて行かれたと泣く女性の首を日本軍が(一回では切り落とせず)三回切ったと。

テレビ番組に出演した壽南監督が女性アナウンサーに答えて私は子どもがいるが結婚していないと話すのを聞く、いわゆる未婚の母が迫害される社会に生きるスタジオの女性達の何かを得たような顔、顔、顔!あれも映像でなければ伝わらない、伝えなくちゃならないものだ。ここには壽南が「小松川事件」は自分の原点だと語る際に口にした「ひとごとじゃない」が表れている。弱い者にとっては全てそうなのだ。だからカメラ=壽南の前で人々は、沈黙や震えも含め自分を語るのだろう。

結婚しない理由としての「男性はまだ解放されていませんから」とは世に言う女性問題とは実際には男性問題なのだというのと同じことだが、해방(解放)は日本人の私には使えないと思った。それは「한풀이(恨みをはらす)とはどういうことかとよく聞かれるがこっちが聞き返したい、加害者そのものでなくても加害者の子孫としてどう思っているのかと」に通じる。被害者と加害者の歴史は違う、それに向き合わねばならないとは逃げないということだろうか。君が代が流れた時に自分も席を立てるか、とか…(私は大人になってから歌ったことはない)。殺された女子高校生の母親とイ・ジヌの母親が初めて会った時に背中をさすりあっていたというのは一つの導きであった。