私たちが光と想うすべて


「ここでの暮らしには暗黙のルールがある、怒りを感じても表に出さないこと」「幻想を持たなければやっていけない」

道路、市場、そして人でごった返す駅のホームや列車の映像にかぶる、ラナ・ゴゴベリゼの『インタビュアー』(1978年ジョージア)も何となく思い出す、ムンバイと自分についての人々の語りの中に、都会は時間を奪う、日々があっという間に過ぎてしまうというものがあったけれど、看護師として働くプラバ(カニ・クスルティ)が雨のなか帰宅し訪ねて来た妊娠中の猫を家に入れ夕食の魚を焼く様子は随分のんびりして見える。しかし彼女をお姉さんと呼ぶ同じ職場のアヌ(ディビヤ・プラバ)共々、ムンバイでの二人の暮らしはゆったりしているわけではなくどこへも向かっていないのだと分かってくる。

パルヴァディ(チャヤ・カダム)の故郷である海辺の村で、海へ入る彼女と波打ち際まで行くが水に入らないプラバと目的のために陸に残るアヌ、三人の陸からの距離は抱えている問題までの手綱の長さの違いのようだ。パルヴァディは「夫が支払いを完済した」のに書類が見つからず20年余り住んでいる建物から立ち退くしかないが、アヌはイスラム教徒の恋人シアーズを呼び寄せ将来のことを口にし念願のセックスをする。そして波打ち際のプラバはある幻想を利用してドイツへ行ったきりの夫への思慕を断ち切る。それぞれの現実を掴んだアヌとプラバのやりとり「彼(シアーズ)のこと、ごめんなさい」「いいのよ、彼を呼んで」に涙が出てしまった。

冒頭より病院の中でも婦人科の描写が多く、「胎盤」が映画に出てくるのは珍しい…と思っていたらその後の場面でアヌはシアーズに同僚が男性器を見て悲鳴をあげプラバに叱られた顛末を笑いながら話す(「君はよく見るの?」「嫉妬してるの?」)。アヌとプラバが男性の裸を愛撫するカットがそれぞれあったのも印象的だ、男性の体が物言わぬ客体として撮られることはいまだあまりないから。それに対して二人、とりわけアヌの肌は抗議する時や排泄する時などに単に生活するそれとして映される。プラバが男性にぼくの光と言われてもその役割を選ばず自身にとっての光を探す点も含め、徹頭徹尾、女性が主体であろうとすることを描いている映画だと思った。