特集上映サム・フリークス Vol.31にて「女性の自立を描いた二本立て」を観賞。今回も、というかいつもタイムリーだ。

▼『ナタリーの朝』(1976年アメリカ、スタンリー・シャピロ原作、A・マーティン・ツウェイバック脚本、フレッド・コー監督)はパティ・デュークが『奇跡の人』(1962)同様に真の自分を目覚めさせるまでの話とも言えるが、それは奇跡の人との時間ではなく主にグリニッジ・ヴィレッジにおいて行われる。
ナタリー(長じてパティ・デューク)が同年代の男の子の「ブス」との悪口から逃げ帰った家でテーブルの下に隠れるのに始まる、見事な「家」映画だ。両親との間に愛があっても「普通」の女の子を育てるための家は彼女にはやがてしっくりこなくなり、自室の窓から何度も逃げ出すことになる。とうとうグリニッジ・ヴィレッジの、思いのままにできる空間で自分を表現するようになる場面の楽しく魅力的なこと。そして映画の終わり、自分の声だけを聞けるようになった彼女はもうどこへ行っても大丈夫と家へ帰る。
冒頭、クラスで一番の「美女」ベティ(デボラ・ウィンタース)に当日誘われたパーティに出かけるナタリーの、ワンピースにママのストール、肩掛け鞄という格好は彼女に全くそぐわない。パーティ会場で鞄をずっと肩に掛けているのも変だ。それじゃあ皆は荷物をどうしているのかというと、比喩として、どうにかしているのだ。皆はうまくやっているのに自分だけうまくできないのである。
今ならこの話は、というのもナンセンスだけど、海辺で隣に寝ている「美女ではない」親友へスターとのやりとりに重点が置かれるであろう(結局のところ映画に映るのは殆ど「美女」なのである、昔は)。ナタリーは当初、社会には「美女による陰謀」が満ちていると考える。これはノベライズで分かることで、私達がそれをバス後部の広告の「美女」を攻撃する軽快なワンカットから読み取ることはできないだろう。今はハロルド叔父さんでもシャーリーでもデヴィッドでもないような誰かが、あるいはメタに言えば男性ではない映画の作り手が、攻撃すべきはそこじゃないととっとと教えてくれるからだ。今の映画の女性は、一人の女性の問題は全ての女性の問題だと始めから認識している。シャーリーやベティの真実に触れ「私が美女に同情するなんてね」と女性に寄り添うようになるまでのナタリーの独りぼっちの長い道のりには、ぐっとくると同時にその後に時代を押し進めてきた多くの人達への感謝を覚えた。

▼『ロング・ウォーク・ホーム』(1990年アメリカ、リチャード・ピアース監督)は1955年のモンゴメリー・バス・ボイコット事件を背景に、白人主婦のミリアム(シシー・スペイセク)と黒人メイドのオデッサ(ウーピー・ゴールドバーグ)が連帯に至るまでを描いた物語。
「黒んぼはフィラデルフィアじゃ生活保護を受けられるからね(働かなくてもいいからね)」との日本語字幕にはっとさせられ、クリスマスの会食の席でのミリアムの義母の「それが本音、誰にはばかることなどない」にこれは今の日本じゃないかと思う。KKKじゃないと言い訳しながら男達はその実KKKである白人市民会議の大集会に向かう。「政治家が参加するのは再選のため」、事業主は利権のため。実際夫のノーマン(ドワイト・シュルツ)は何かあればと議員に声を掛けられる。「我が家の女性達の名前」を付けた道はそういうものの上にある。夫やその弟で差別主義者のタンカー(ディラン・ベイカー)の、ミリアムの娘キャサリン(当時を振り返る形でのナレーションをメアリー・スティーンバージェン)の一方的な可愛がり方と、オデッサが「子ども達の未来のため」と血を流しながら歩いて仕事に通う姿の対比。
「夫は妻に従うもの」であった当時、「話し合う」ためには夫が帰宅したら鏡をチェックして…すなわち身綺麗にし、酒を出し、まずは機嫌を取らねばならなかった(尤も機嫌を取っていない瞬間などあるのかと思うよね、ああいう関係で)。しかしそうしたところで話を聞いてもらえるか否かは向こうの都合次第、これも今なお変わらない。ミリアムとオデッサの、相乗りはちゃんと機能してる?とのやりとりには今ならSNSがあるから…と思ってしまった(動画も撮ってあげられるしね!でも差別感情もそこで煽られているのが今なわけだけど…)。更にミリアムとオデッサの家庭が交互に描かれる中、サンタクロースはいないと妹の夢を壊したりデートのためにボイコットを破ってバスに乗ってしまったりする十代の娘の「現実的」なところが描かれているのがよかった。それは仕方のないことなのだ、大人がカバーしなければと思う。