
主治医のジャジャーン!(×2回)じゃないけれど、この映画が描いているのは「他人との距離が異常に近いが相手のことはどうでもいい」世界である。それを体現しているのが隣人で自称劇作家のイングリッド(レナーテ・レインスベ)で、部屋の奥までずかずか入り込んでおきながらエドワード(セバスチャン・スタン)がタイプライターにつき「道で拾った」と話しても全く聞いていない、聞く気などない。治療によって違う男(原題)になった彼は店のトイレで客の女性に舐めてもらう…距離がほぼゼロで関心もほぼゼロのことをしてもらった時、鏡に映る新しい顔にやった!と思うが話はそこからねじれていく。
イングリッドはガイと名乗るエドワードの演技を「障害もないのにマスクを被ると別人のよう」と評する(それは他人が言うことじゃないだろう)。例えば子どもの頃に太っていることを気にしており、大人になって痩せてもその気持ちが抜けない、太っていることを気にしていない(ように見える)人に苛々してしまうという話をたまに読み聞きするが、この映画に描かれているのもそれだろう。更に言うなら女性が「顔を捨てる」創作物は幾つも読んだことがあるが、この映画のような展開、例えば「あんな顔の奴と?」と言う差別者を…という要素など、女なら「見て居られなすぎる」と描かれないんじゃないかと思った。私は見てみたいけれども。
その一方で私には、オズワルド(アダム・ピアソン)が登場してからの後半はエドワードの妄想にも思われた。イングリッドはエドワードを「ビビり」と言うが、この世界では彼のような者はビビりになるのが当たり前じゃないか?人が太っているのを気にするのは世界のせいだし、性犯罪に遭ったら皆が犯罪者でなくても世界が嫌になる。でも、もしも、ビビりじゃなかったら?というのはナンセンスじゃないのか?ある者にとって世界はいつもホラーめいているとは他の映画も教えてくれるが、この映画でも、エドワードが他者の立てる音にしじゅう衝撃を受けている一方、この世界の象徴であるイングリッドはどんどんとやられてもうるさいばばあだなで終わり。一軒家に住んだ方がいいだなんて考えもしない。「皆はうまくやっているのに自分だけうまくやれない」感覚がこんなにも蘇る映画ってない。
エドワードはマスクを着けてかつての自分を演じることで世界との不和を無くそうとするが、他者などどうでもいい世界=イングリッドによって書かれた物語を演じたところで救われるはずがない。「(女性と接するのが)なぜ初めてだと分かるんだ、それに自殺なんてしない」(世界=イングリッドの前でエドワードを「殺した」のは彼自身なわけだけども)。「当事者」であるオズワルドが賛同すると彼女もそれを受け入れるが、振る舞いの明るい者の主張は通るのか、そもそもオズワルド自体がありえない存在じゃないかと見ていたので大変な皮肉というか余計に冷たく突き放された気になってしまった。