
レインボー・リール東京にて観賞、2024年インド、オニル監督作品。「カシミール語を主言語とした初のLGBTQI+映画作品」とのことで英語の原題はWe Are Faheem & Karun。カシミールの実家に帰省した大学生のファヒームと南部インドから検問所に派遣されたカルンの恋物語。
冒頭カルンはSNSを見て来たという観光客に「あそこに見える塔がパキスタンだ、心だって近いよ、壁さえなければ」と言う。ボーダーにおいて人は幾らでも豊かになり得るはずなのに、この地で二国は同じ美しい川から同じ恵みを得ていながら、あるいはそれゆえ、違う名前で川を呼び血を流して争っている。ファヒームとカルンが出会えたのは検問所が新たに設置されたからというのは考えたら複雑だ。
ファヒームが集める川辺のゴミは観光客が捨てて行ったものだろうか。観光客の多くにとってその地での暮らしは人ごとである。映画の終盤、武装勢力と警察の銃撃戦で地元住民が亡くなった時、外から来ていた青年はすごいものを見たよと笑うのだ(一緒にいる女性がたしなめるが)。自分に関係ないものはどうでもいいという感覚の恐ろしさ。
「武装集団が侵入した」となれば検問は厳しくなり、カルンがファヒームの体におそらく初めて触れるのは形ばかりの身体検査の時。地元民のおれたちを疑うなんてと憤った青年達はカリムの母が心配したように集団で彼を追い石を投げつける。やがて通信も遮断され、唯一の繫がりの手段だった携帯電話も使えず相手の安否も分からなくなる。
ファヒームの家では、店で料理を作るのは父で家族の料理を作るのは母。評価される機会の少ないであろう母の夕食に「美味しいよ」と感想を述べる彼は優しい息子だ。しかし「お母さんの夢は何だった?」と聞くと彼女は「誰からもそんなことは聞かれず嫁がされた」と返す。母が息子の何をも否定しないのは、当人の意思が一番と考えているからだろうか。
ファヒームのぼくのチャイはどう?にaddictiveと返して指と指を触れ合った二人、カルンは「いつ自覚した?」と問う。ファヒームはいとこに…その彼はオーストラリアに渡ったと話す。自分の父親はここで殺されたという父も大学を中断して帰ってきた兄も、異なる理由でだがファヒームに家から出て行くよう勧めるが、当のファヒームこそが「ぼくの家なのに出て行く必要があるのか」と主張するのに胸打たれる。しかしラストシーンからして、どうしようもない悲しみの前に彼らはどこかへ行くのかなとも思う。