
オープニングから過去に遡り、なるほど主人公グレース(サラ・スヌーク)の生い立ちから始まるのかと思いきや、映画の大方は彼女がこれまでの人生をかたつむりのシルヴィアに語る内容という構成。聞き手の歩みがのろいので語っても語ってもまだ目の前にいてくれるのがいい。
途中でこれはピンキー(ジャッキー・ウィーバー)いわくの「かたつむりの残した跡」、それこそメモワールなんだと気付く。自分が生まれた時に死んだ母に始まる、大切な人を失う過程、同時に「かたつむり」を溜め込む過程を振り返ることが彼女には必要であった。その結果、ケン(トニー・アームストロング)との関係につき「檻に自分から入るのはいいけど入れられるのはいや」と言っていたのが、自分で入った檻から抜け出すことができる。
フランス人である父を演じるドミニク・ピノン以外の出演者は皆オーストラリア出身。グレースとギルバート(コディ・スミット=マクフィー)の双子は監督と同い年の1972年生まれ。「1960年に建てられた公営住宅」で育った彼らは父の葬儀を公的サービスで行う。それまでの、まだ半分ある、もう半分しかない、グラスはただのグラス、の三人での暮らしはお金はないながら父が言うように「宝物」であった(そして、そうでない子ども時代を送る人もたくさんいることがこの映画では示される)。
軟体生物学者とマジシャンの両親と文学に対しグレースの送られた家には会計士と自己啓発書、馴染めたものではないがギルバートの送られた先の邪悪な宗教家に比べたら全然ましである。道の向こうとこちらに分かれた双子が保護者のせいで全く違う道を辿ることになる。作中ではいわゆるスウィンギングや性的なフェティシズム、女漁りなどが描かれるが、「異性愛」であるそれらが制約を受けない、せいぜいが軽蔑や別れの原因になる程度なのに比べ、「同性愛」は理不尽で恐ろしい迫害を受ける。虐待に暴力を受けるギルバートの顔に現れる怒りと恐怖は、アニメーションで初めて見る強烈なものだった。
これもよくある「遺灰の出てくる映画」だが、そもそもグレースは外に出ないので大方は家に置かれピンキーのものは彼女の希望に沿い菜園pity pitに撒かれ、一つは「遺灰(と思っていたもの)はただの灰だった」、最後の一つはジェットコースターから撒かれる。「故人の遺言を叶えるために撒きに行く」なんて恩着せがましいことにはならないのがよかった。