
「コンパスは二人共有だ、二人で使ってた」。チュンとユエを洞窟で発見、救助した人が二足の靴を並べた間にコンパスを置く。その人が「『男の子』の方の靴は今は自分が履いている」のも含め、それはユエの言によれば「兄弟であり恋人」である二人の歩みがそこで止まったということであり、しかし二人が歩んだことそのものがこの映画で記録されたということでもある。ユエの「自分の中にチュンがいる」という、一人で二人分歩んでいるという認識も映画によって残された。白い靴下で木に登る、すなわち更に上へとゆく少年のイメージは映像作家であるイーシャン監督から親友チュンへの贈り物に思われた。
「二人は存在自体が自由そのもの、でも二人が出て行く時、何か大きな危険があるような気がした」。高校時代には「性自認が理由で長ズボンを履くなら精神病院の診断書が必要」とする学校側に「目をつけられていた」チュンは、「こんな自由な旅は初めてだとはしゃいでいた」という。監督が自分宛ての直筆の手紙を扱う手付きからも伝わってくる、死んだ人の心のうちを勝手に想像しては最もいけない、そりゃいつだっていけないけれど、そういう映画だけれど、映画『グラン・ブルー』を「入って隠れることができる」というふうに見ていたと聞くと、チュンにとって山とはそういう場所だったのかなと思う。
監督がカメラと共に足取りを辿る後半は、二人が旅で触れ合ったネパールの山岳地帯の人達へのインタビューになるのが面白い。自由を求めて出掛ける場所にも当然人が生きているわけだ。登山する時の格好は、例えば山スカートのようにいわゆる男女差のつけられた商品もあるけれど、地上ほどではない、靴だって。だから却って現地の人達にとり二人は「男の子と女の子のカップル」であった。「食べて屁をして楽しそうだったよ」「私たちをパパとママと呼んでたよ」と。二人がそのことにつきどう思っていたかも、もっと知り合えばどうなったかも分からない。そもそも手紙の内容だって、ユエは「本心じゃない」と言う。
旅行中に一人帰国せざるを得なくなった監督はチュンにこんなメッセージを送っている、「私は病気になったみたいだから、あなたたちのような過酷で自虐的な旅はできない」。冗談めかしているのかもしれないが、登山にそういう要素が含まれるのは確かだ。山映画なら好きで何本も見てきたけれど、このように地上でのジェンダーアイデンティティの苦しみをはっきりと描いた山行きのドキュメンタリーは初めてだと思った。