秋が来るとき


(以下「ネタバレ」しています)

「ばばあの娼婦だ」と暴言を吐く老いた男、ルカの上級生らに偏見を植え付ける大人、ミシェル(エレーヌ・ヴァンサン)と親友マリー=クロード(ジョジアーヌ・バラスコ)それぞれの子はそうした環境で育ってきた。ヴァレリー(リュディビーヌ・サニエ)は母が後にしたパリへ逃げ、ヴァンサン(ピエール・ロタン)は先の男にしたように肉体的な暴力を行使し自分のスペースから差別者を追い出した。久しぶりに対峙した二人の一方が消えるのは『サブスタンス』すら思い出す。

「生きて愛し合おう、死後に認められるまでなんて待たない」。これは老女と「若くはない」が男盛りのゲイと少年という家父長制から遠いところにいるオゾン的にも美しい三人が、生きたいと願い、守り合って生き延び、最後に「約束を少し破ってもいい」場所に再び集まる話である。苛められたことから祖母が娼婦だったと知り一度は「気持ち悪い」と拒否するも「あなたの幸せのためなら何でもする」と聞くや素直に頼るようになった孫のルカに、鍵と共にその精神が受け継がれる。

死んだマリー=クロードは医者に行かなかったしヴァレリーは「身投げしたいほど辛い」と言っていた。ヴァレリーは母を愛していたがミシェルは娘をそこまで愛していなかった。娘は母が長らえばいいと願っていたし、仕事三昧は母とは違うふうに働いて稼いでいるんだというアピールにも見えた。病院からルカを連れて帰る運転席での涙は絶望のそれだ。これは弱者の中でも最も弱い者が消え、あるいは消されて他の者が「せいせい」している(ヴァレリーの死後にミシェルがマリー=クロードに軽くこぼす本心)話でもある。三人が集う最終章に私が覚えた安堵は、彼らの優しさゆえではなくまずもって世界を侵しているシスヘテロ男性の視点からの解放感であった。その中でも色々な物語が必要なんである。