サブスタンス


男が女を主体として見ないことによる一つの事象、SNSでもよく言われる「男は若い女と老いた女は別の物だと思っている」が目に見える形で描かれている。「サブスタンス」は日本の美容広告のように「自分はただ一人」と尤もらしい、かつ自己責任に帰することのできる文句で女に(時に男に)それを飲み込ませる。体を二つに分けてミソジニー溢れる世界に放り出すことで互いに互いを憎ませる。つまるところそれは女に自分自身を憎ませるということなのだ。2章終盤の「エリザべス」(デミ・ムーア)の「醜い自分が大嫌いだから」、そんな彼女を殴打し蹴り飛ばす「スー」(マーガレット・クアリー)の異様なまでのパワーにそれが表れている。

ハーヴェイ(デニス・クエイド)の「かわいい女の子はいつも幸せ」に表れているように男は女を自分の延長としか見ておらず、愛されてこそ幸せだと洗脳することで女をコントロールする。終盤繰り返される男の声の中にオーディションで前の女性が言われていた「おっぱいが顔についてればな」「次!」まで含まれていることから、この映画もまた、女にとって個人の問題は社会の問題だと言っていると分かる。スーが出演する、女の胸や尻や股間をカメラで追い回す番組は目を覆いたくなるほど「グロい」が、作中の人々が、あるいは映画の観客の多くが目を覆うのは別のシーンだろう。3章の「モンストロ・エリサスー」こそ洗脳がすっかり決まったハッピーな状態であること含め、私にはその皮肉が光って見えたが、現実をキックするようには思えず不満も残った。

「自分に価値があると思うか」との問いに苦しくなったエリザベスは、偶然再会した同級生のフランクに電話を掛ける。男に「女」として認めてもらうことでしか自身を保てないということと、スーの(実在ではない)姿形にこだわりエリザベスという自身を認められないということ、二重の悲しみが彼女を内へ押しとどめ外へ出て行かせない。この映画で秀逸だと思ったのは、窓の外の巨大広告(もう二度と見ることもないけれど、ドラマ『星から来たあなた』(2013)を思い出させる)や収録済みの番組という事物によって、自分であるはずの姿が他者のように見える(であろうと私達に想像させる)ところ。SNSなどの存在しない本作ではこれらがその代わりといっていい。

本作は『ブリジット・ジョーンズの日記 サイテー最高な私の今』(2025イギリス)と対になる映画だ。前者が寓話で後者がリアル。割れ目に合わせた背中のジッパーを自分で軽々と上げられる前者と(いや、私も上げられるけど)、「男」を作ってそれを解決する少々意識の低い後者。新聞やテレビへの関わり方も寓話とリアルのそれだ(リアルならスーはまずお偉方にセックスを求められているはずだが、そうしたいわば直接的な加害は話の焦点を絞るために取り除かれている)。冒頭事故で運ばれたエリザベスに医師が言う「私の妻があなたの大変なファンで」には、後のスーが「母が彼女の大変なファンで」に含ませる言外の意味はなかったようで、ブリジットのことを考えても、そうだ、やっぱり女同士が分断されないように目を凝らしておくことが大事なんだと改めて思った。