ロザリー


アベルブノワ・マジメル)は肌の触れ合いを求めていながら戦争で負った傷を見せまいと娼館でも服を脱がないが、妻ロザリー(ナディア・テレスキウィッツ)の「普通」より毛の多い胸元はランプをかざして確認する。この映画における明かりの操作は彼による見る・見ないの意思表示であり、通常それは男の一方的な支配だが、傷のあるアベルにとって見ることは見合うこと、心を開き合うことに通じる。終盤ロザリーの自傷行為に心を痛めた(それほどまでじゃないと行動に至れないということだが)彼が翌朝に彼女の寝室のカーテンを開け放つと、それまでロザリーが陽の元にいたことなどただの一度もなかったことが分かる。しかし後に村社会から加害を受けた彼女は、幾つものろうそくに照らされた舞台で肌を晒す瀕死の自分を夢に見る。

冒頭のロザリーが「夫に愛されますように」と祈るのは、「普通じゃない」自分が生きるには愛されるよりないと思っているからだ。当初はアベルに拒否されるが、「実家に帰ったら父親に殺される」彼女は彼の借金に目を付け「髭のマダム」として辣腕を振るう。そのうち田舎のカフェは自由を体現する場となり、村の権力者である工場主(バンジャマン・ビオレ)の妻や娘が顔を輝かせて集い、食べて喫煙してゲームをして共に過ごす場もカフェの延長となる。ロザリーはアベルに対してセックスも求めるようになる。毛が見えない方がいいかもと乳の先だけ見せて誘うなんて手管も明るく感じられる。このあたりはある種の日本人にはそんなふうにでしゃばるとろくなことがないと言われそうだ(『私はニコ』(2021年ドイツ)で自分の歩く道幅を譲らなかった主人公を思い出す、あれには強く共感した)。

しかし工場主が「毛さえ剃れば普通に戻れる」と言うように、「普通じゃない」人も「普通」になれる、そうすべきだと考える人は多く、「普通じゃない」まま隠れずに生きる者はそれだけで脅威や反抗とみなされる。アベルが「嫌われるぞ、やつらは怖い」と言うのはそのことだ。しかも女の場合「普通」の場合も「普通じゃない」場合も男に性欲を向けられたり単に軽んじられたりする。あんな写真を撮らせるんだから「やらせる」だろうと酔って現れた工場主をやんわり拒否すると途端に嫌がらせをされ、そこから暗雲がたれこめる(金に物を言わせて村全体を彼女の敵にしてしまうわけなので、資本主義のくそさを描いた映画でもある)。男の医者はロザリーの体をいじって「間違いなく女です」のあげく性器に手を突っ込んでくるし、男の記者はインタビュー中、「女が生きるのは大変です」の部分はぴんとこないのかメモを取らない。ラストシーンは二人きりの世界でないと二人は幸せになれないということだろうか、それともまた浮上するのだろうか。