
イタリア映画祭にて観賞、2024年マルゲリータ・フェッリ監督作品。
分娩室の母親(クラウディア・パンドルフィ)に始まるのに意表を突かれていたら、「これが27年前、生きていたら今何をしてたかな」と少年の声が語り出す。映画の終わり、ユーモアもたたえたこの語りは息子アンドレア(サムエレ・カッリーノ)を自死で失った母テレサによるものだったと分かる(本国では元となった著書が知られている)。「生きていた最後の日」のハグの「ママは気付いたんじゃ」は彼女がその時「気付いた」ことを示しており、かつては「当ててみるね」と息子のことが分かったのに今はもう分からなくなった、でもああして抱き合えば彼の苦しみが流れ込んできたに違いない、だから語ることができたんだと思う。しかしアンドレアのクリスティアンに対する気持ちや「『娼婦』の格好」に対する感覚、つまりある領域についてのみ描写が随分ぼんやりしており、それは本当のところは分からないからという「配慮」なのかもしれないが、役者の力量や演出では補えない部分が欠けているように思われた。
物語がアンドレアの誕生に始まるのは、その存在が母の愛と幸せそのものだからだろう。この作品では冒頭のような幼い頃は「単純で幸せな時代」である。それが次第に複雑になる。当初家の中だけだった世界が学校と半々に、次第にそちらに比重が移り、やがてSNSにまで拡がり制御できなくなる。クリスティアンの「戦争の原因なんてなぜ知らなきゃならないんだ」にアンドレアは「過ちを繰り返さないため」、アンドレアの「神がいるのになぜ悪い人がいるのか」に祖母は「神は見本を見せる、私達は実践する」と返す。しかし実際には学んだり実践したりする者はそうおらず、皆が武器をとるから自分も武器をとるわけだ、アンドレアや親友のサラ以外は。いわゆるネット苛めにより勉強できなくなり成績が下がっても放っておかれているらしき様子に、先生は何かできなかったのかと思う(この映画に出てくる先生は皆、怒る時でも笑顔を浮かべ柔和だが役に立たない)。被害者ばかりが本当に損をする。今の日本の苛めやヘイト問題もそうだけど、行政が介入してシステムを変えるしかなく、著書やこの映画はそのために認められている。