
「よかったら今夜ここに泊まらない?」「ずっとここに住もうかな」。いわゆるプロポーズのひととき、抱き合った二人のようにぴったり一致したリチャード(トム・ハンクス)とマーガレット(ロビン・ライト)…映画独自の「主人公」とその妻…のhereへの気持ちはその後すれ違う。
そもそも父親アル(ポール・ベタニー)に何を描いているのか聞かれた時の答えのようにリチャードは「目の前のもの」で満足する人間である。一方マーガレットは大学への進学やパリへの旅行を望んでいる。それがマーガレットを妊娠させたことによりリチャードは就職せざるを得ず「目の前のもの」にかまけられなくなり、マーガレットの方はアルの強権的な態度もあり「自分達の家」を望むようになるが叶わない(リチャードの「心配していれば悪いことは起こらないと思っていた」が重い)。こうしたすれ違いや辛抱、伝えられないまま過ぎた時間は多くの人が経験しているだろうが、その上で総体的には素晴らしい人生だったということを、そりゃあそういう思いも世にままあるだろうが打ち出すことは適切だろうかと考えてしまった。ネイティブ・アメリカンも仲間として描いておきながら。
漫画『HERE ヒア』を読んで、匂いを嗅ぐ時はその粒子を吸い込んでいる、パンが匂いの範囲の大きさなら巨大だろうなんて話をするのはどんな男性だろうと思ったものだけど、映画化にあたり発明家にしたのがゼメキスらしい(椅子の名前が「リラクシー」から「レイジー」に変えられてしまうのが笑える)。発明で儲けたお金でカリフォルニアに越す彼ら夫婦や、飛行機の黎明期に飛び回って心配させておきながらインフルエンザであっさり死ぬ男…の葬儀を終えて寂しがる娘と「こんなところ」と家を跡にする妻、リチャードとマーガレットの娘ヴァネッサ(ゼメキスの娘のザ・ザ・ゼメキス)が仏頂面で写真に写っておきながらフロリダへ発つ祖父母を愛してる!と見送るのは家を出ることを考えているからだと思う。
こうした人々の軽さに対し、映画独自の要素である「主人公」は重い。漫画ではその軽さゆえ却って読んだ私達はhereを感じるわけだけど、ここではまず彼が感じている。しかも家を出て今は認知症を患っている妻を連れてきて「私達は全力で生きた、私はここにいた、私はここが好き」と確認させるなんて物語は、私にはしみったれたものに感じられてしまった。