
サミュエル(ハリス・ディキンソン)いわく「ぼくがイメージしていたのは戯れる二人の子ども」。子どもとは(実際そうでなくとも、大人からすれば)権力から解放された存在だ。冒頭のエレベータ―で年嵩の白人男性に囲まれる図に象徴されているようにロミー(ニコール・キッドマン)はまぎれもない男性社会に生きており、これまでのと男女逆版のストーリーは単純な反転にならない(部下のエスメ(ソフィー・ワイルド)に「あなたは権力の座についている数少ない女性だからその地位にいてほしい」と言われるのが印象的、女同士の関係にはこうした縛りがある)。だからミラーリングは「子ども同士」になって初めて実現するのだと言える。
サミュエルが「二人」をイメージしているのも面白い。ロミーの妄想しかり、二人のエロスは二人、すなわち関係にある。初めてのホテルでも、彼女がある言葉を言ってからのホテルでも、この関係を二人は探り探り構築している(キッドマンの、あ~もうしょうがない!という演技がいい)。美しくもかっこよくもない、揺れのあるドキュメンタリーめいた映像で撮られたそれらはこの映画の白眉だ。ロミーがうつぶせでないといけないことをサミュエルは知っており、漏れそうだから勘弁してとのセリフから彼女が他人にいかされたことがないと分かる。「彼女(エスメ)は違う」からしても、これもまた多くの「恋愛」映画のように「合う」二人が出会って関係を作っていく物語だと言える。
夫ジェイコブ(アントニオ・バンデラス)に演出家としてのぼくをどう思う?と聞かれたロミーは大した人間はいないとはぐらかす。ベッドなら尚のこと、彼女は彼にまともに向き合わない。白いシーツを被ってやっと性的な願望を口にできるが、自分の顔に枕を押し当てると「自分が悪党みたいに思えて…」と拒否される(これは世に「悪い男」がたくさんいるからそんなことになるのだ)。ベッドでの二人を描くオープニングとエンディングは同じようで同じじゃない。ジェイコブまでケアするサミュエルは今後の世界は変わるかもという、ロミーだけじゃなく大仰に言えば人類全体の希望である。
難しいと思うのは、「(男に性的に)求められる」女であっても満たされない、その欲望を満たしてもいいという話だとは分かるんだけど、「求められない」女の欲望がそういう男のそれに比べてずっとネガティブなものとされている社会では、前者を描くことがその強化に繋がりかねないということ。主体となってこなかった者にとってはままあることだ、例えばセックスは大したことじゃないけど大したことでもある、といったような。だから物語が当事者目線でたくさん作られることが大事なんである。