
映画はジュールズ(ネイサン・スチュアート=ジャレット)が化粧をしブーツを履きドラァグクイーンのアフロディテになるのに始まる。後に「彼女の方が本当の自分なんじゃないか」「襲われた後の(家に籠ってゲームをするばかりの)自分は彼女を失望させたんじゃないか」と話すことから、それは本当の自分というよりそうありたい、あるべきだと願う姿に思われる。終盤、襲われたこととそれへの対応を舞台でジョークにし楽屋に戻った後の苦しみは、望む自己のための合体のそれに見えた。
自分に暴力を振るったプレストン(ジョージ・マッケイ)への復讐として暴露動画を撮影するため、ジュールズは彼好みに演技をする。服を買い、ワインを飲み、ごめんなさい、私のせい、を連発し、加害者と接する怖さからの怯える様子も含めてプレストンはそれが「ジュールズ」だと思う。一方ジュールズに恋心を抱いているらしきルームメイトのトビー(ジョン・マックレア)はアフロディテの方を「普段」と捉えており、身近であっても他者を捉えることは難しいと分かる。
序盤で家に籠っていたジュールズがゲイサウナに出向くのは、仲間でありながら見知らぬ人々に囲まれたかったからだろうか。粉をかけてきた相手との「おれのは23センチだ」「今夜はだめなの」「それじゃあ楽しんで」とのやりとりに、ここなら確かに安全だと思う。プレストンも男を求めて来ているがシスヘテロ男のコミュニティに属している時の自分から抜け出せない。彼はジュールズのおかげでこの、いわば偽の自分を脱ぎ捨てることが、最後にはそれまで入ることのできなかった場に入ることまでができたのだと言える。
プレストンの方もジュールズに対して演技をする。初デートのレストランでジュールズを見て、分かった、こういう男が好きなんだろと「ワル」のふりをする。それは普段の演技に乗っかって楽をしているだけとも受け取れる。最後の殴り合いで彼が「うそつき」を連発するのは演技をネガティブなものと捉えているからで、ジュールズが最後に受け取るメッセージは本物という概念への憧れ、二人でその境地へ行こうとでもいうような心の叫びに思われた。
それまでとは違ういいセックスをした後で「よかった」と伝える、それは言いたくてたまらない本心でもあるし、そうやって男をコントロールしましょう、えっ犬じゃあるまいしなんでそんな手間をという面倒でもあるし(この二つは男を相手にする属性にとっての「あるある」だろう)、ジュールズの場合は再びセックスして動画を撮るための手管でもある。こうした割り切れない微妙で複雑な部分が当事者により差別や偏見なしに描かれることで、安心して映画でエロスやサスペンスを楽しめる。