
ダグラス・サーク傑作選にて観賞、1957年作品。見るのは初めて。
ジューン・アリソン演じる主人公ヘレンについての、電話の向こうの医師モーリー(キース・アンデス)の「会ったことはないが健康な人だろう」に、異国に来るくらいだから(あるいは同じアメリカ人だから!)との推測かもしれないが唐突だなと思っていたら、これは「健康」な女とそうでない女、すなわち男の相手ができる女とできない女の話であった。女のそういう話は幾らか思い浮かぶが男のそれは知る限りない。
伯爵夫人(フランソワーズ・ロゼー)の、病気の姪レニ(マリアンネ・コッホ)についての「彼女はもう存在しないから」には私も驚かされたが(「年寄りの話し方を許してね」)、レニの夫トニオ(ロッサノ・ブラッツィ)に恋するヘレンは「彼女が死ぬ想像をした瞬間だけ希望があった」と告白しながら世界をその反対へ引っ張ろうとする。それが私にとってのこの映画の結末だ。
ヘレンと結婚して家=アメリカに帰りたく思っているモーリーは、「最後はみな家に帰る」とのフランスの諺を気楽に行こうという意味だと言う。家にいない人々の話であるこの映画は全編が不安と緊張に覆われている。冒頭「湖のそばの伯爵夫人の家と言えば誰でも知っている」と教えられてヘレンが出向いた屋敷で登場した夫人が想像よりはるかに落ちついて見えたのは、彼女だけが真に家に住んでいるからだ。「昔は世界中でトニオと踊った」と話す、今は家に閉じ込められているレニが外へ出てくる場面には鬼気迫るものがある。夫ではなくヘレンに会いに来るのだ。
ヘレンの所へやって来たモーリーの「君はいつもめかしているね」には、一見「乱雑だが落ち着いた」自宅めいた部屋にいようと彼女がそこを家とは思っていないことが表れている。初めて顔を合わせたレニが「すてきなドレスね」と、私が何てすてきなんだろうと見ていたその身なりにつきまず言及するのもそれを見抜いてのことに思われた。
先日『ミゼリコルディア』(2023年アラン・ギロディ)を見た際、ベッドとは家の中の家だと思ったものだけど、それならば、私にはいつも自宅のベッドばかりが心に残るファスビンダーの映画はこの映画の真逆だ(ということは同じ線上にある)なとふと思った。