ANORA アノーラ


アノーラ(マイキー・マディソン)は客のイヴァン(マーク・エイデルシュテイン)に元日には休日料金をやんわり請求し、その後は前払いで一万五千ドルを受け取り一週間「彼女」となる。しかしベガスでのドライブスルーウェディングを境に「仕事」は「仕事じゃない」に変わる。そこへイヴァンの親の部下達がやってきて、これがおれ達の仕事だからと彼女の「仕事じゃない」をぶち壊す。洗礼式の途中で呼び出されたガルニクと翌日は妻が使う車を運転するトロン、そこに根の張っていない感のイゴール(ユーリー・ボリソフ)の三人はクビ怖さにイヴァンの友人の働く菓子屋やレストラン、交通係など他人の「仕事」をなぎ倒していく。こうした戯画的な描写が私には、セックスワーカーと彼らに共通する(とここではされている)心労を軽く扱っているように感じられ笑えなかった。

アノーラが自分の結婚につき「成人同士の同意に基づく対等な関係だ」と主張する時、彼女がルームメイトと住む高架脇の家と車での移動を挟んでのイヴァンの暮らす豪邸の鮮やかな対比が蘇り、そうだからこそこの主張がなされるべきなのだと思う。しかしそれならば主役は例えば清掃に来ていた女性でもいいわけで、同じ労働者でもセックスワーカーなのは「仕事」も「仕事じゃない」も傍から見れば似ていることの妙を利用するためのように思われてしまった。オープニング、暗がりで腰と尻をくねらせる女達の列には(訴えるつもりが例えなくとも)圧倒的な男と女の力の差が表れており、そこにセックスワーカーの辛苦の根もあるわけだけど、いつも思わせられるがショーン・ベイカーはそうしたことには無頓着である。イヴァンが検索してみれば?と教えるのは父の名だが母親ばかりが出張って来るのも、アノーラと同僚のダイアモンドの「嫉妬」なんて言葉の出てくる小競り合いも、「あえて」には見えない。

施術の際に脇に置かれたスマホの背面のAniに、なぜ彼女はアニーと名乗り呼ばせるのだろう、なぜこの映画のタイトルはAnoraなのだろうとずっと思っていたら、それをほどくのはイゴールの役目であった。世界で唯一アノーラの結婚に「おめでとう」を言った男、すなわち「仕事」に囚われていない、あるいは「仕事」と「仕事じゃない」が同居している男。映画の終わり、高架脇の家に戻ってきたアノーラは彼を相手に「仕事じゃない」ことをしようとするがかなわない。かなわなくても全然いいはずだけど、彼女には他の「仕事じゃない」がまだないのかもしれない。多分、これからそれを知るという物語なんだろう。